2011年11月10日木曜日

現代国取物語

橋下知事危うし
今、日本にいないので実感がないのだが、大阪市長選挙で橋下知事が苦戦しているらしい。
それも自民、民主、共産まで寄ってたかって、落とそうとしているらしい。要は強引な
改革をつぶそうという既得権益の大集合、全くの呉越同舟状態のようである。
この辺りは ダイアモンドオンラインの岸博幸「TPPと大阪W選挙の共通点」
http://diamond.jp/articles/-/14810
にも論評されてる。

どちらかというと橋下知事は人間的にあまり好きではないが、やはり日本は地方から変えていくしかないのであろう。それには彼のようにちょっと無謀なくらいの活力のある人が必要だ。織田信長だって、決していい人ではなかった。むしろ、彼の傲慢さが天下統一を可能にした。よい人には改革はできない。暴君信長が倒れた後に、少なくとも太平の世は訪れた。同じように、橋下知事もいずれはさる。そのあとには改革された制度が残る。同じような人が九州、北海道と出てきてくれば地方も変わってくるであろう。


現代国取物語
地方行政改革といっても上から目線の道州制などさらに地方の活力を奪うことにしかならないと私は思っている。平成の市町村大合併で活力が出た都市があるのであろうか?要は、中央政府の都合でお荷物の僻地をひとくくりしたか、大きな都市に押し付けただけである。

ここからは私の夢想である。たとえば、県境は毎年見直しを県境の住民の自由意思に任せることにしたらどうであろうか。県境にいる人たちはどっちの件についたほうが得か考えて、住民投票で決めることにする。決断のカギになるのは福祉とか住民税、あるいは教育などの公共サービスの水準ということになるであろう。つまり払っているお金に対してよりお得な県に入ったほうがいいと考えるようになる。他の県の都市に触手を伸ばす方はおそらく税収の上がりそうな都市を取り込もうとするであろう。そのためには、その周りの田舎の村も取り込まなくてはならないということになる。たとえば、広島県福山市などは工業都市であるが、岡山と広島の境にある。岡山としてはこれを取り込めば、かなり産業を取り込むことができる。

笑顔の公務員
例え、攻め込んでいかない、守りに徹するとしても、しっかり守るためには、住民の支持が必要、そのためには節約に励み、公務員も住民に笑顔を振りまいてサービスする必要がでてくる。それだけも住民は随分と得するというものだ。郵便局だって、民営化されるという話が出たころからずいぶん愛想がよくなった記憶がある。人間、落ちると地獄と思うと自己改革ができるようになる。安泰という気持ちが自己改革を遅らせる。

政治劇場復活
たとえば、港湾都市としてすっかり凋落した神戸・兵庫であるが、混乱する大阪府の北西部、豊中市あたりから攻略したらどうであろう。関東は東京の圧倒的な財力のもとに切り崩しは難しいであろうが、これまで、東京の場末に甘んじいた、神奈川、埼玉、千葉がその劣等意識を一掃するために関東連合を立ち上げ、徐々に切り崩して最後に石原王国は皇居中心の千代田区を残すのみとなったりして、石原知事が「皇居落城は絶対に回避する。」と叫ぶ姿を想像したりする。勝手な夢想には際限がない。

日本国取物語が復活すれば、マスメディアにも格好のネタができ、言葉狩りなんてつまらないことで発行部数を稼ぐことはしないであろう。混沌からしかエネルギーは生まれない。

2011年10月21日金曜日

下町ロケット:新しい産業は中小企業が作る

下町ロケット
下町ロケットはご存じ直木賞小説である。どんな結末が待っているかも、大体想像がつく。人物設定も受けそうな設定、悪役と悪っぽいが実は最後は味方とか魅力あふれる人物がちりばめられている。とはいえ、案の定、比較的単細胞な私は最後あたりは滂沱の涙ながら読んだ。主人公の直面する問題は経営に携わる者ならば、うなずきたくなるものばかり、資金繰りに、従業員とのコミュニケーション、できているようでできていない。大企業の官僚的な対応、横柄さ。それを乗り越えねば商売もない。そうそう、と思わずうなずくことばかり。
零細・下請けのイメージ
日本で中小企業というと大企業の下請け、つまりは縁の下の力持ちというイメージが定着している。よってそこにはどこか
わびしさが漂う。しかし、エコノミストのスティグリッツもいうように、新しい雇用を作り出すのは中小企業なのである。大企業はリストラをし、下請けにコストカットを要求するだけなのだ。それは先が見えているからである。新しい企業は最初は当然中小企業、だから小回りが利く、つまらない管理はしない。要は無駄が少ない。コンプライアンスなぞ知ったことではない。それが新しい環境に適応する力となるのだ!

起業率・廃業率
ところが日本では廃業率が企業率を上回るという事態が80年代後半から続いている(中小企業白書2010)。また、日本の企業率は2001-2004年は3.5%、2004-2006年はもちかえして5.1%となったが、廃業率はその間、6.1%、6.2%と確実に日本の企業ベースは縮小しているのである。一方米国、フランスなどを見るとどこも起業率は10%を超えている。つまり、産業の新陳代謝がよいのである。

もとは皆、中小企業だった?
今、市場価値世界一位の企業であるアップルも始めたときは零細企業。2人の若者が始めた企業である。マクロソフトも、グーグルも一緒である。アップルとマイクロソフトの創業者はどちらも大学中退者である。いわば、既存の枠にとらわれない無手勝流の若者が世界を席巻したといっていい。日本にもかつてはソニーの森田、本田の本田宗一郎というゼロから世界企業を作り上げた人たちがいた。しかしそういった若い企業が輩出しているという話はきかない。楽天も、ソフトバンクも素晴らしいと思うが考えてみればドメドメ企業である。あえて言えばユニクロ?しかし、イノベーションで世界に出ているわけではない。もともと日本は財閥系の大手ががちっと支配するお上しはいのこうぞうである。そのルーツをたどれば政商だったり、国策会社だったりする。彼らの経営が官僚的で、創造性に欠けるのはそのルーツの性であろうか?そうした企業がいまだに経団連とかで業界を牛耳っている限り、中小企業が出ていく余地はなかなかうまれない。

韓国の躍進
撮りためていたNスペ、昨年10月の「緑色戦争」(2010年11月14日)をみた。番組では韓国政府の第二のサムスン計画として環境技術に政府が真剣に取り組む姿と日本の大阪の中小企業が中国進出で苦渋の思いをしている姿を対比している。中国のしたたかさはさておき、韓国企業が政府の支援で受注を獲得、方や革新的な技術デモってしても越えられない価格の壁にぶつかり、現地委託生産の選択をした時のインタビューの社長の不安にみちた虚空をさまよう目には憐憫の情さえ感じさせられた。きっと丸裸にされて儲けもなく中国から帰っていくのかと。
新幹線、原子力と重厚長大の輸出を模索する日本に比べて小回りの利く中小企業の海外進出を助ける韓国企業、その戦略性のスタンスの違いに唖然とした。

日本復活のカギ
日本復活のカギは元気な起業家が輩出できる環境を作っていくこと言うことになる。最近、経産省を退官した古賀茂明氏は
その著書「官僚の責任」ではトヨタのような下請けに甘んじていては将来はないとまで言っている。トヨタは下請けから絞り上げることで巨大な利益を出しているが、下請けにはまったく利益が残らないようになっている。利益なしに将来の成長はないともいえる。またトヨタが国内の生産をやめる、あるいはトヨタがコケれば、下請けもこけてしまうことも遠い将来の話ではないかもしれない。

日本にはJETROという経産省の外郭の輸出促進組織がある。現在はあまり知らないが、20年以上前にお付き合いがあったころにはおもにMITIの出先機関として接待とお出迎えに忙しそうな組織であった。独法化できっとよくなったかとはおもうが、あまりに輸出超過が続いたので一時は輸入促進までやっているという本末転倒を起こしていたが、この組織を解体するなり、独立させるなりして、輸出促進を再度見直さないと、早晩日本は韓国、中国に輸出市場をあらかた取られるであろう。今は国を挙げて輸出企業の育成に合理的精神で臨んで勝機をつかむ最後のチャンスかもしれない。

2011年9月20日火曜日

スローライフの経済成長論

今回の震災の後、ネットででは、多くの人が、これまでの多消費型の経済からの脱却を訴えている。この夏の節電も別に15%程度、電気を使うのを控えても別に生活に困らなかったという向きもあるであろう。無駄な消費をしなければ、エネルギー消費も少なくて済む。ならば原発を止めてもいいだろうという論理が、反原発、スローライフ派の人たちの主張だ。しかし、江戸時代の「倹約令」のような節約を政府が政策として打ち出したりすることはない。これ以上景気が冷えると、ますます、失業者は増え、税収も落ち込むのを危惧するからである。震災の後、花見とかコンサートを自粛する動きが出た時も、景気の後退が復興を妨げるという意見が結構あった。確かに皆で節約するとGDPも減ってしまう。

このジレンマを解くカギは、これからの日本の行く末を考えるうえで重要である。経済は単純化したほうが分かりやすい。
ある南海の孤島の人口10人だけの経済を想像してほしい。そのうちの5人は農業で食料を生産している。もちろん食料は10人が食べてハッピーな量だけしか生産していないはずだ。なので需要と供給はぴたりと合っている。しかし、ある時この村の知恵者が島の経済を研究したところ、この島の人たちはメタボでそのために成人病が多く発生しているということが分かった。更には、生産した食べ物も管理が悪く、多くがネズミに食べられたり、腐ったりして生産物の4割が無駄になっていることが分かった。村議会ははカロリー消費20%低減のメタボ撲滅作戦、20%水準への無駄低減を政策として打ち出した。さて困ったのは農民である。この政策が実現すれば、生産はこれまので60%で足りることが明らかだ。一部の農民はこの新政策は経済を疲弊させるといって反対運動を計画し始めた。

ここまでは日本の原子力村と農民は同じ精神構造であることはお分かりであろう。自分の狭い利益に目がくらむとそういうことになる。ところがこの島の人たちはもう少し賢かった。農民の指導者が消費が減ることを歓迎しようと提案したのだ。彼はこういった。これまで人口の半分が食べ物を提供するのに早朝から日没まで働いていた。生産する必要量が減るのだから、まずは皆、働く時間を減らして日暮れ2時間前に仕事をやめることにしよう。これで先ずは2割の減少を雇用を減らさずして達成することができた。しかしながら、農民の所得は当然ながら2割減ることとなった。農民の反発はあったが、彼は農民たちにこれまで無駄な労働をしてきたこと、余った時間は本を読んだり、家族の世話をすればよいと説得したのだった。

早く帰宅して時間のできた農民の中にはその時間で知恵者のところへ行って、勉強する者もあらわれた。そこで一人の農民はメタボについて勉強をし、ダイエット教室を開くことにした。その結果は島人の健康は大幅に改善し、病気で仕事や勉強を休むものが激減した。平均寿命も延びて長期的には労働力も増える好結果となった。

次にはもう一人の農民が新しい蔵をたてて食物管理業に乗りだした。この蔵は厳重に分厚い壁で作られているので、ネズミの侵入を防ぎ、温度を一定に保つことができ、無駄の削減をほぼ0まで減らすことができることが分かった。この農民の倉庫業への転出で農民は3人となった。計算の得意な方は農民は昔通りに働いたら、2.5人しか必要がないことが終わりのはずである。さてどうするか、3人の所得を落として雇用を守るのかまた判断の分かれ目だ。単純な雇用確保は長い不況と新興国の追い上げで、実質賃金の切り下げで対応してきた日本と同じ道である。しかしここでも島民は違う道を歩むこととした。村の知恵者の助言で、一人は食料生産をやめて、薬草栽培に乗り出した。島の健康ブームもありこれは大きな所得を生み出すはずである。残った農民2人も知恵者のところに行き、水牛の導入による耕作効率の向上を目指すことを決めた。
これにより2人でも生産が達成できる。2人は将来を見越して、消費がさらに減っても所得が下がらないように、より収量の高い品種の導入を研究している。これが達成できれば、最後は農民一人で島全体の食料を賄うことができるはずである。

節約で島の経済は縮小したであろうか?もちろん答えはNOである。生産性の向上と新しいサービス業への転出で高い収入を得る職種ができたことにより所得は向上する。村人は以前にはなかった豊かなスローライフを満喫している。もちろん知恵者のところには助言のお礼にいつも贈り物が送られてきているはずだ。陳腐な経済用語でいえば、「生産性の向上」と「高付加価値産業の創出」が鍵ということになる。あともう一つ考えるべきことは雇用を守ることは重要であるが、個々の産業で守ることは全体の利益にならない、ましてや一企業の雇用を無理やり守ることは社会の生産性を停滞させることになりかねない。今の日本では製造業は厳しい状態におかれている。若者の失業率も高い。その一方で看護婦、介護士とかは不足している。児童の保育所も足らない。人手は一方で不足し、一方で余っている。

スローライフの普及と経済の成長は両立するか。上記の島の例を考えていただければYesといえるかもと思っていただければ幸いだ。だたし、それには労働市場の正しい意味での流動化が必要だ。多くの人が単純労働者ではなく、高付加価値を生むプロフェッショナルになる必要がある。新しい産業を興すための支援も必要である。新しい雇用を生むには規制緩和も大事だし、教育制度も変える必要があるであろう。ひいていえば、社会全体としての知恵を出す仕組みの構築が重要となる。まずはこの島の例のように遠い将来を見越した知恵者が必要なのかもしれない。この島のように皆が前を向くのは難しいですか?皆が後ろ向きで、今の仕事にしがみついていて経済が伸びないとこぼしていて経済が伸びるわけはない、とは思いませんか?

唐突ですが次回にはこの島の国債(島債?)問題について考えてみたい。

2011年9月17日土曜日

日本マスメディア向上計画

日本のマスメディアをどうしたらいいのか?先ごろの経産省大臣の舌禍事件でますます暗澹たる気持ちになってきた。昔、昔、私が就職したばっかりのころ、友人がとある大新聞に就職した。彼の話によると、まず新聞記者は夜討、朝駆が基本でともかく、担当の政治家について回るのだという。自分の書いた原稿は校了した後も印刷にかけられる深夜まで待機するというとのことであった。いつ寝るのと聞けば、車とかの移動中ということだった。という彼は、酒を飲みながら、寝込んでしまった。

現代のように変化の激しい世界では常に新しい知識を勉強しなければ時代から取り残される。寝る時間もない記者が本を読んだりして勉強する時間はあるのであろうか?おそらくないであろう。一方、記者クラブに出入りできるメディアは、官庁の大本営発表をそのまま流せば、とりあえずは紙面は埋まり、TVの時間は稼げる、何もしなくても日々の糧は稼げるわけである。となるとますます勉強することはなくなるのは人間の性である。しかしそんな報道ばかりでは読者も飽きてくるので、時たまスクープを打つ必要がある。その恰好の題材がスキャンダルであるが、昨今は愛人を囲うような度量のある政治家も少ない。となれば、金の問題か、失言ということがよいシノギになるということではないか。まして首相の首を取ればきっと報奨金くらい出るのであろう。日本の首相がころころ変わるのは彼らの力が弱くなったこともあるであろうが、メディアの読者、視聴者確保の営業材料に具されているだけである。漢字が読めないとか、英語を間違えたとか、低俗なアラさがしでまずは下地を作っておいて、より大きなミスでドカンと落とす。あとは仕上げを待つだけ。メディアはいつから首狩り族になったのであろうか?ただ、それを喜んでいる国民がまだいるとしたら、新聞紙にくるんで捨てるべきである。

もう一つの問題は、ウルフォンセン等の外人の政治学者がよく指摘している点であるが、日本の記者は政治の情報を国民に伝えることではなく、政治を動かすことを動機として仕事をしているいう点である。ナベツネとかはキングメーカーとして有名であるが、自分が祭り上げるのに関わった総理大臣のことについて客観的な報道ができるのか?答えは小学生でもわかるであろう。しかし、政治にかかわりたがっているのはナベツネだけではない。個人的な経験では、ある勉強会で、NHKの記者が、大臣をはめた話を披露しているのを聞いたことがある。自分の推し進めている福祉改革に対する質問に半分ひっかけで、大臣から言質を奪った経験を得意げに話していた。確かに多くの人が彼女の進める方向性は正しいように思ったのだが、そのために報道はゆがめていないのか?われわれは真実を知っていたのか?という疑問が残る。

今回の原子力村騒動で、自分自身の原発の知識の貧弱さに愕然とした。同時にマスメディアの歪みを多くの人が認識するようになったのはよいことだったと思う。われわれが愚民であるとしたら、その判断能力を問う前に、まずは正確な情報が得られているかどうかを問わねばならない。いっそのこと新聞、TVを見ないという運動もいいのではないかと思ったりするが、そうすると経済的に困窮して彼らはますますイエロージャーナリズムに走っていくであろう。

解決策はまずは記者クラブを廃止すること。次は新聞社等が証拠の整備をすすめるように多くの人が名誉棄損で訴えられるようにしたらどうであろう。なかなか妙案はない。有徳の金持ちが出資してスキャンダルは大きく取り扱わない、政策を取り上げるということを社是にするメディアでもつくってくだらないメディアを淘汰するしかであろう。

トマス・ジェファソンは出版の自由の必要性について、1787年に「新聞のない政府と、政府のない新聞のどちらをとるか、もしその判断を任されたなら、私は,瞬時のためらいもなく、後者を選ぶだろう」という有名な言葉を残した。そう思えるメディアが一つでいいからほしい。

2011年9月4日日曜日

「原発論争」と「夫婦ゲンカ」の相似性

とある中小企業経営者の一家の台所のシーン。
近年の不況で会社の経営は青息吐息である。疲れた表情で帰ってきた夫に奥さんが畳み掛ける。
妻:「ねえ、あんたまた飲んで来たの?」
夫:「仕方ないだろ。営業なんだから!」
妻:「お酒飲んで午前様ばかりじゃ、命を切り売りしているようなものじゃないの?あなたはいつもお金、お金と儲けの話ばかりだけど、健康あってのお金でしょう?子供の教育は全部私に押し付けて。子供のことは心配じゃないの?」
夫:「毎日営業で駆けずり回ってもなかなか契約も取れない。借金を返したら、今月の給料が払えるかどうかさえ危ういところなんだ。、今度の営業を逃すと大変なことになるんで必死なんだよ」
妻:「今のうちに商売替えでもしたらどうなの?たとえば介護とか、今後伸びるような分野に乗り出すとか?」
夫:「そんな、そんな不慣れなことに手を出しても、すぐつぶれちゃうよ。今はともかく生き残りで必死なんだ。」
妻:「会社なんてつぶれても家族さえしっかりしていれば何とかなるわ。いざとなったら私の実家にひきあげたっていいし。」
夫:「今まで贅沢ができたのは誰のおかげだと思ってんだ?生活レベルを落として家族が満足するとは思えないよ。」
いつまでたっても議論は平行線のまま、やがて家族内不信の渦はどんどん拡大していく。

中小企業を「日本」、接待営業は「原発」、夫は「経団連+経産省」、妻は「自然エネルギー推進市民団体、そして子供もつ全国のお母さんたち」に置き換えてみると、今の原発論争の構図ではないかと思う。

新興国の追い上げ、そこに加えての円高による日本企業の海外移転の加速、風評被害による輸出の落ち込みなどなど企業を取り巻く環境は大変に厳しいものがある。それに追い打ちをかけているのがこの夏の節電、そして電力料金の値上げ問題である。日本に競争力のある企業は残るのか?

企業は基本的に金の流れが止まるとあっという間に死に絶えてしまう。大口の契約をなくしてしまえば、企業の生命など数か月の運命である。収入なしに1年も持つような余裕のある企業などまず存在しない。日々の稼ぎが企業の生命線である。したがってともかく電気をくれ、何とか客先を日本においておいてくれということになる。一方、子供を育てる母親たちは、子供の将来という20年先、いや一生が視野に入っている。子供が何をやっていてもいい、金持ちでなくてもいい。健康でさえいてくれればと願うのが母親というものであろう。したがって原発何という危ないものは許容の外である。

目先の稼ぎ(しのぎ?)で頭がいっぱいの夫と何十年先のことを考えてる妻の間の議論はかみ合うことがない。以上はNHKの新生日本という番組のエネルギー討論を見ながら、これはいわゆる互いの立場を理解しない夫婦げんかに近いという感想を抱いて思いついたことである。

では解決策はあるのであろうか?喧嘩には仲裁が必要であろう。双方が相手の立場を尊重する態度しか
あゆみよりはない。原発再開も新しいもの、活断層から離れている安全性の高いものははとりあえず再開容認、その代り、今稼働する古い玄海一号などは停止と、合理的な判断をすべきである。さらに福島の事故調の結果をみて停止の是非を考えればよい。そうした道筋をちゃんと国民に確約すれば、反対派も説得できるはずである。

そして仲裁だけでなく、目先しか見ることができない夫=経済界には、手を差し伸べる必要がある。環境、医療、放射性廃棄物の除染、介護、再生可能エネルギーなど、あらたな糧を得る方法を支援できれば目からうろこで新しい商売にもチャレンジする意欲がわいてくるというものである。

そのために一番合理的なことが規制緩和と起業支援である。たとえば地熱、国立公園での開発は難しいが景観修復を条件に許可を積極的におろせば、国の予算は必要ない。たとえば、放射性物質の測定、アイソトープセンターの児玉先生の言われるように日本の画像技術と測定技術を用いれば世界に冠たる産業になるであろう。たとえば、ロボットの除染への応用などいくらでも新しい仕事は創出しうる。仕事を作るための規制緩和、安全な生活を確保するための規制を組み合わせることで雇用も創出できるはずである。

調停をし、めんどうみのいいおじさんに野田政権がなれるかどうかに脱原発の行方も日本の産業の行方もかかっている。

2011年7月31日日曜日

官僚制度は社会の癌?

連日東京新聞が経産省、保安院の非倫理的な組織行動について追及を続けている(2011.7.29現在)。経産省のTwitter, ブロガ―の情報監視に続き、中電、四電でのやらせ公聴会指示問題と追及の手は止まない。完全にバイアスのかかった原発ありきの情報操作を行ってきたことが白日の下にさらされることになった。政府は保安院を分離することだけで乗り切るのかきわどいところまで追い込まれ始めている。

異端のエコノミスト、シュンペーターは資本主義の強さの源泉は市場メカニズムの破壊力にあると看破した。社会に不適応を起こした企業、製品は市場から淘汰されることにより、新しい産業、製品の創造の契機となるというものである。どんな老舗の企業でも社会環境の変化についていけなくなれば、商品が売れなくなり、最後は倒産する。倒産することは多くの不幸な失業者と家族を生み出すという悲劇を生む。しかし、倒産は個々の企業にとっては悲劇であるが、資本主義社会全体では必要不可欠な仕組みである。社会のニーズに合わなくなった企業を市場から退出させることにより、無駄な資源が使われることを最小化することができるようになる。不要な組織を抹消することで新たな組織=企業が生まれる素地を用意することになり、産業全体の活性化が図られていく。生物の種においての個体の死とあるいは生物個体と細胞の死と関係資本主義経済における企業の倒産は同じ関係にあるといってもいい。個々の死があるから種としてあるいは一匹
の生命の健全性が保たれる。企業の死は必ずしも社会にとって悪いことではない。

同じように民主主義という政治機構は選挙民の支持を失った政治家を瞬くまに政治の舞台から抹殺する破壊力を持っている。どちらも小規模の破壊を常に繰り返すことで経済、政治体制全体の鮮度を保つという機能を持っている。前近代的な社会は、破壊-改革とう機能がなかったため、破滅寸前まで社会全体が衰退し、革命を持って再生が始まるという犠牲の大きいものであった。しかし、現在でも決して死なない組織がある。官僚組織である。

一度作られた官僚組織は容易にはなくならない。生物学的に言えば「癌細胞」に似ている。通常の細胞はアポートシスと言って傷ついたり、不要になったりすると自殺するプログラムが埋め込まれている。癌はそのアポートシスによる制御が効かなくなったために増殖し続け、細胞の母体全体の生命を最後は奪い取る。官僚組織も増大化のみを自己目的化した組織であり、自分自身でその存続に終止符を打つことはない。

国民的の視野からすれば本来不要になった官僚組織は廃止にすべきである。まして反社会的な行動をとった組織を温存するのは犯罪的でさえある。基本的に公務員が政策を誤って、国民に被害を与えても官僚個人は免責される。情報隠し、詐称、やらせを行っても官僚組織が責任を追及されることもない。検察は民間組織を挙げても公的組織を背任行為として訴追することはない。政府機関が政府のあらさがしをするのは自己否定であるからであろうか。今回の原発事故の原因も経産省と保安院、更には文科省、原子力安全委員会といった組織の罪が大きいのは明らかである。原発推進のために耐震基準、事故調査、建設許可すべてで手抜きをしていたという指摘があるにもかかわらず、メディアの官僚組織の責任追及の少なく、議論はとかく政治家と電力会社に集中しがちである。


現代の経済はIT技術の急速な進歩、グローバルな企業間競争の激化とその変化のスピードは加速する一方である。日本が世界の経済覇権を握るのではないかと畏怖されたのもほんの20年前である。いまや韓国、中国の後塵を拝して日本の経済は今や窒息寸前である。日本企業の必死の生き残りを傍目に綿々と古色蒼然した組織を維持することのみ注力しているのが官僚組織である。現在、公的部門の影響は公共事業、社会福祉など直接的な関与のみならず規制、認可と実体経済のほとんどに及んでいる。日本経済の生産性を高めていくには、行政の生産性を高めるしかない。なぜソ連の共産主義はほろんだのか?イデオロギーは別として、共産主義は基本的に官僚が資源の配分を決定する仕組みであるからだ。官僚組織は滅びない、不要なものも生き続けるために、資源の無駄遣いが続く。その一方社会のニーズは変化するので新たなサービスを提供するには新たな官僚組織が必要となる。古いものを消さずに次々と新たな官僚組織を付け加えれば社会の生産性は次第に落ちていく。現在の政府の予算は特別会計を合わせると200兆円を超えている。GDPの半分近くが官僚組織の裁量で決定されているわけである。日本は半分共産主義の国といっても過言ではない。


官僚組織のラジカルな破壊と創造を行うには強い政治力しかない。民主党の政治主導はまさにそれを目指したはずであるが、現実には完全に官僚の言いなり状態に陥っている。今回の福島の悲劇は日本人に、日本の危機を自分自身で救うことができるのかという真摯な問いを投げかけた。私は政府自体の抜本的な改革は避けて通れないと思ったが、結果はかなり悲惨だ。国民も菅降ろしの政争劇に目を奪われて問題の本丸を見逃している。リーダーさえ立派だったら政府がどうにでもなるという幻想に惑わされている。一つにはメディアの報道力がないため、個人責任追及型の報道しかできないからである。もう一つは日本には大学を含めて、真の政策検証能力がないからである。まずは福島原発の責任を官僚個人ではなく、組織に負ってもらう必要がある。大胆な官僚組織の廃止、まずは原子力保安院・安全委員会の廃止が第一歩であろう。

2011年7月28日木曜日

「将来の世代につけを残さないための増税」の嘘

バブル崩壊の後、日本の財政は悪化の一途をたどり、2011年には国中央を合わせた債務GDP比率は200%を超えている。そして現在、震災直後にもかかわらず増税が既定路線となりつつある。増税のうたい文句は「将来の世代につけを残さないために」である。しかしながらこのレトリックには大きな嘘がある。そのからくりを見てみよう。
まず国債の解消には2つの方法がある。基本路線は増税により財政バランスを黒字に持っていくこと。もうひとつは一部のエコノミストが提唱するリフレーション=軽度のインフレーションである。リフレーションは現在のデフレを打ち消し、経済を活性化するのが主眼であるが、同時に国債の実際的価値を減じてくれるので政府は債務削減もできる。この方法は増税のような直接的な痛みを伴わない等のメリットはあるが、インフレーションは市場の機能を低下させる、投機を誘発する、ハイパーインフレーションになれば経済麻痺を引き起こす可能性があるなどのリスクも多々ある。当然のことながら通貨の番人の日銀が最も嫌う策である。ここまでは一般常識的解説であるが、この2つのオプションには実は世代間の所得の移転という側面を持っていることを見逃してはならない。
総務省の「家計調査」によれば平成22年度の2人以上の世帯において世代ごとの貯蓄額は次のようになっている。


単位:万円/世帯
平均 30歳未満 30~39歳 40~49歳 50~59歳 60歳以上
1244 274 624 1082 1585 2173

当然のことながら老人は若者の10倍近い資産を持っている。

リフレーションは日本を支配する老人層にとって不都合である。国債だけでなく、自分達が所有する現金・預金などの金融資産が目減りするのだ。例えば、年に8%のインフレを起こしたとしよう。その場合単純計算だと、現金は9年で半分の価値になることになる。更に時間の経過とともに目減りは進行する。他方現在のデフレ(1%)は約1割の価値の増加ということになる。インフレが始まるとそれに伴って金利も上昇するが、普通預金がインフレ率を上回ることはない。もうすぐ年金生活に入ろうとする年齢層にはこれはとても不安なことである。年金制度も破たんする可能性も高い現状で、老後の快適な生活を守るには自分の金しかない。他方、増税というのはどういうことか、消費税が20%まで高くなった場合でも、現在の金融資産の購買力は20%減ることになるが80%の購買力は担保されることになる。デフレと合わされば、購買力は10%程度減じるにとどまる。これは老人に都合がよいわけだ。他方、これを若者の視点で見るとどうであろうか?増税は若者の生涯に渡って課税されることになる。リフレーションの場合はどうであろう。少なくとも所得はインフレ率に応じて増加すると予想される。他方、若者の金融資産は少額である。したがって資産の目減りが将来の経済活動を影響することはない。
いま議論されている「社会保障と税制の一体改革」というのは実は「これからの老後を保障するための自己中改革」ではないかと思っている。累積債務も年金破たんも若者に責任はない。しかし、デフレを続け、増税により財政バランスを達成し年金制度を守っていくことは将来の世代を老人の奴隷化にすることにならないか。若い世代はもっともっと政治に関心を持たねばならない。

2011年7月5日火曜日

原発の安全・危機管理体制の構築

現在福島原発の現場では東電の現場職員が必死の思いで収束に当たっている。汚染水が溢れないようかつ原子炉を冷温停止に持ち込むための努力は我々の想像を絶する戦い。東電という会社に現場を仕切るそれだけの人材がいたことは日本にとっては不幸中の幸いであった。とはいえ、3月12日からの原発の関連の報道をみて、最初に起こった疑問は「日本には原発のシビアアクシデントに対応する特別組織というものはいないの?」という疑問である。オームの地下鉄サリン事件の時には化学テロ対策班のようなものが出っ張り、さすがに万が一の体制はあると一応の敬意を国に持ったものだが、今回は、まるで火事になった一般人が119番をしているがごとく政府はあたふたしていたというのが私の印象である。NHKスペシャル「なぜ原発事故は深刻化したか」でも福山官房副長官は事故当日、彼は必死に電源車をかき集めていたと証言している。政治家という技術的にも危機管理も素人がたまたまその場にいたからと言って現場責任者になっていいのであろうか?政府はすべてが初めて、まにあわせ、はっきり言って私の方がましな指揮を執れると思った方は日本に多くおられるであろう。これは一部菅首相と民主党の責任であろうが、ひょっとすると原発事故という想定外の危機に対する体制はなにもなかったのではないか?政治家は判断を下すリーダーであって、情報を収集、分析、代替案を提示する専門家ではない。そんなすべての知識があるわけはない。更に懸念するのは将来ありうる他の国レベルの危機に関しても官邸がトップになれるだけの情報収集分析、資源を瞬時に配分するシステムがこの国にはないのではないかと、危惧する次第である。

3.17、自衛隊は原子炉向けの放水車もヘリも持っておらず、とりあえず山火事を消すがごとく、ヘリで二回だけ散布した映像には世界中を落胆させた(もちろん、そのヘリの乗組員とか自衛隊を責めているわけではない)。放射能汚染水が出始めると、現場はおがくず、新聞紙まで突っ込んで対応しようとした。もちろんこれは何の役にも立たなかったのであるが、地下水汚染の民間専門家を招集する組織さえも政府にないことがいかにも稚拙に見えた。現在行われている汚染水の冷却循環システムの構築においても、原子炉冷却と調整する必要はあるが、東電の現場に負担を減らすように別組織でもできたはずだ。

災害対策体制はどうあるべきかという議論が何もわき起こらないのはなぜなのか?補正予算には福島対応の予算が入っているようにも見えないのは、東電といういわば事故の当事者に、収束を全部ゆだねるのが筋ということなのであろうか?今後とも各電力会社のベストエフォートベースで事故対応を期待するのか?要は政府は国難と言いながら、東電に全責任を負いかぶせるためになにもしないだけなのか?であるとしたら、誠に無責任な政府、(政治家+官僚組織)に我々は国民の安全を預けていることになる。今の政府がそうであるならば、それは早晩つぶしてでも、国がはっきりと責任をとるシステムを作ることが必要である。

福島を何とか収束させたとしても、残りの原発も不安である。福島が壊れた後、次の事故はもうないのかというと、週刊現代今週号の報道では,玄海1号、美浜1,2号、大飯2号、高浜1号機と中性子被ばくで老朽化、脆性破壊の可能性の高い原発がごろごろしており、伊方原発も中央構造帯の真上と活発化する知地震大国日本は多くのリスクをはらんだままである。全部止めたとしても長期に崩壊熱を燃料棒から除去するために厳重な管理が必要な原発には絶えず放射性物質拡散の危険がついてまわる。であれば、次の原発災害の対応組織も整備する必要がある。金のない政府には頭の痛い話であろうが安全があっての繁栄、優先度は高いはずだ。まず、原子力保安院はつぶすべきというのは前にも書いたとおりである。おそらく原発災害・テロ対策隊を自衛隊の姉妹機関として作ることがまずは必要ではないか?もちろん、この組織は保安院のように事故が起きた場合に伝書鳩になるのではなく、現場に急行し現場で対策組織を電力会社のオペレーションチームと立ち上げる能力を持たせる。普段のシュミレーション・訓練でも常に電力会社と合同演習を行う必要がある。また、現場の主だった所員がいなくなる、機能できなくなるという事態も可能性がなくはないのであるからどのようなシナリオも考慮済みの体制が必要である。災難を糧とするならばそれくらいの組織再構築は必要ではないであろうか?

災害に至らなくても人災によりこれまで原発は多くの事故を起こしている。保安院は独自に事前技術認証する能力も事故対応する能力もなく、事故を客観的に調査する能力もない。基本的に書類審査機構である。違反に対して取り締まるいわゆる警察力(英語で言うところのEnforcement)もない。米国で法律において規制を行う場合には通常Enforcement 体制を付与するが、日本では口頭注意で刑事罰を与えることはまれである。しかしながら、原発のように多くの国民の生命を危機にさらす可能性のある施設・組織を規制するには警察力がなければ実効が上がらないということはこれまでの事故で公然と情報の隠ぺい、改ざんが行われてきたこと、過去の教訓から日本の原発の安全がどの程度改善されたかということを見れば自明であろう。つまるところ自衛隊のような機動力と警察のような普段の取り締まりが必要というのが原発という特殊な発電組織に対して必要といえよう。

新保安院は自衛隊の特殊部隊的な危機対応能力と、警察的な安全遵守の監視の双方の機能を持たせた強力な組織であるべきだ。悲しいことに脱原発にせよ、原発継続にせよ、使用済み燃料棒と放射性物質がある限り、こうした特殊組織がなければ国民の安全は担保されない。事故調の分析からそうした組織体制への強化が出てくることを望んでやまない。

2011年7月1日金曜日

原発長寿国ニッポン

日本が世界に唯一最先端を行く高齢化。皮肉にも原発もそれに歩みを合わせている。他の国々が
普通20-30年で廃炉にするところを日本だけはいつまでも使いまわそうとしている。日本には30年を超える原発が19機も運転されている。
世界に胸を張って「モッタイナイ」と「敬老精神」の発露と言えないところが悲しいところ。
結局のところ、日本の原発は多くの老朽化原子炉が太平洋のRing of Fire 火山帯という最も危ない場所に最も頼りない原子炉が林立している状態だ。

原子炉の圧力容器はスチール製であるが、長期使用すると炉内で発生する中性子でぼこぼこになり脆くなってくる。通常は原子炉は300度前後の温度で運転さえれているが、急激に冷やすとぱっくりとお釜が割れる危険がある。この割れる可能性の温度のことを脆性遷移温度という。新品の原子炉はマイナス10度以下でしか割れないが、それが玄海一号機になると今は98度までこれが上昇しているという結果が九電の検査で明らかになっている。

原子炉に問題があった場合には緊急冷却装置が作動し、熱暴走を防ぐのが最も重要な対策であることはすでに広く知られていることである。福島第一の場合にもECCSは作動したが、作業員が手動で停止している。
http://www.asahi.com/politics/update/0517/TKY201105170193.html

なんでそんなことをしたのかといぶかしく思った人は多いだろうが、報道ではこれはマニュアル通りの手順としていた。福島第一という老朽化した原子炉の脆性破壊の危険性を考えた場合にはこれはきわめて正しい。福島第一の一号機は39年、二号機は36年、三号機は34年選手である。72年以降のデータがないがその時点ですでに50度を超えた脆性遷移温度が報告されているから、現在は玄海と同じような状況だったのかもしれない。つまり、福島は冷やさなければ、メルトダウン、冷やしすぎれば、原子炉崩壊という難しい綱渡りの緊急事態対応だったということになる(今の状況は不運ではなく、原子炉崩壊とか、水蒸気爆発が起こっていないだけ、とても幸運なのかもしれない)。

この老朽化については原子力情報資料室の以下を参照されたい。
「原子炉の照射脆化、脆性破壊に関する検討」
原発老朽化問題研究会
http://cnic.jp/files/roukyuuka20110312.pdf
前回も玄海一号機の危なさと老朽化原子炉廃炉について書いたが佐賀新聞も取り上げている。
http://www.saga-s.co.jp/news/saga.0.1968174.article.html
ということで、是非にも老朽化した原子炉の停止を次の課題としては我々は取り組まねばならない。
その妥協策として書いた「2開1停のすすめ」もぜひご批判いただきたい。

2011年6月29日水曜日

原発を再開すべきか?=2開1停の暫定的再開・停止基準のすすめ

最近海江田経産大臣は原発の再稼働を促しているが、これは経産省と産業界の短期的な利害を代表するだけで国民の安全を守る政治家のトップとしての資質を疑わせる言動である。福島原発は津波による全電源喪失の前に地震によって既に主要な配管等に破損があった可能性が高く、その意味において現在の耐震基準で補強された原発の安全性は未だに確保されていない。不確実性の高いものを安全ということは1000年に一回の津波を無視する以上に無謀であろう。筋論からいえば、事故調、安全基準の見直しが終わるまでは原発の再開は大きな不安要素を抱えることになる。一方、事故調、現在の基準の見直しが終わるまでは、何も運転できないとなると電力不足で原発推進派のみならず、日々の営業に汗を流す産業界からも電力の安定供給に不安の声が上がるであろう。
となれば、まずは暫定的原発再開・停止基準を設けることが現実的な妥協策ではないか?古い原発、活断層に近いリスクの高い原発から優先的に停止指示を与える一方で安全度の高そうな原発から運転を再開するのはどうであろう。週刊現代先週号の報道では,玄海1号、美浜1,2号、大飯2号、高浜1号機と中性子被ばくで老朽化、脆性破壊の可能性の高い原発がごろごろしているらしいし、伊方原発も中央構造帯の真上と活発化する知地震大国日本は多くのリスクをはらんだままである。もんじゅ、六ヶ所村も相当怪しげだ。
当面は2増1減程度の目安で特に危険性の高いものは停止していくというのを電力会社に提示する。電力会社の方は全面再開を要求すれば、すべての責任は電力会社に投げられることになり、そうした強行突破をする勇気は電力会社にはないだろう。この妥協案でとりあえず、危険な原発をとめ、ある程度の電力供給力は確保する。最も危険な原発を止めることで脱原発派も一応安心、更には産業界も安心。脱原発か原発推進課という二者択一的、煽情的なプロパガンダの横行する国政も当面回避することができる。

この妥協策でこの先2-3年の電力供給体制をしのいでいる間に、事故調査の結論、安全基準の改定をじっくりやればよい。また原発の本当のコストというのもはっきりしてくるはずだ。その結論を待って国民の間でじっくりと脱原発についても納得がいくまで議論すればよい。原発の再開を急ぐと再開した事実に安全基準を合わせる、あるいは事故調の答申を解釈しなおすという結論の逆流が起きかねないのが日本の原子力村の道理である。そうした抑圧的な政治は震災後の日本を二分する危うい政治に他なならない。脱原発派はますます政治不信に陥るであろう。政治不信の拡大は戦前のようにデモクラシーは破たんの危機を迎えるであろう。

今、政治家には現実をさばくプラグマチズムが最も必要とされている。それは国全体を思う知性と勇気の発露に他ならない。

2011年6月17日金曜日

消費税よりも節税節制

我々中小起業者は税金に対して敏感だ。そして誰でも大なり小なりやっているのが節税だ。でも中には無駄な節税も多い。期末になると、無理してでも備品を買ったり、発注したり。中にはたいした利益をだしてもいないのにばかでかい金庫を買ったりするところもある。どうせ経費だからと外車を買うくらいならば、個人目線で、社用車に国産車を買えば、国内消費も喚起されるし、利益も多少はでるだろう。税収が年間30兆円しかない国は震災対策の財源に消費税を増税しようと躍起である。消費税は間違いなく、消費者マインドを冷え込ませ、どの企業の売り上げも直撃する。それを回避するために、節税を少しゆるめて、ほどほどにすることはできないものか?と、一零細起業者である私も考えているところである。

2011年6月8日水曜日

地産構想で復興構想会議をぶっ飛ばせ

まずは増税で始まった国の復興会議、高台住居、エコカーで高台から漁港通勤、瓦礫で鎮魂の森とか、土地勘のないお話が当然のことながらオンパレード。補正予算はといえば補助金付け。三位一体の改革をはじめとする地方分権を民主党は党是にしていたはずなのに、地方主体の視点はまったく見られない始末。旧態依然の上から目線である。
復興構想会議なぞ頼りにしなくとも地元は地元で最善の復興案を立てて、むしろ国に押し付けるくらいでちょうどいいのではないかと思う。島原市は普賢岳の噴火の災害復旧の際に完全な地元のイニシャチブで93ヘクタールの安中三角といわれる被災地の再生に成功している。土石流で押し寄せた土砂で平均6mのかさ上げを行い、新たな土地を作り上げたという。総埋め立て量526万立方メートル、これは今回の震災で発生した瓦礫の約5分の一弱。地元だからできる大胆な発想、国の抵抗を押し切って92億円勝ち取った結果の成果である。東北も安中三角の精神に見習うべしである。

被災した各市でも復興計画が立てられていることは新聞記事で散見するが、漠然とした内容しか報道されていない。スケジュールも予算もおそらくまだ議論をする余裕がないのであろうと推察される。国の計画がどう連携するのか、予算とはどうつながるのかは判然としない点も多すぎる。今回、震災、原発では政府が情報通達、開示でいたるところで躓いている。隠しているだけではないのであろうが、伝えてやるという態度を改めて、話を聞く、対話をするという態度をもてば、おそらく多くの問題が深刻化しなかったのではと思う。復興計画も国、県レベルともに行政のみの視点では、実施の際に必ず齟齬が出る。NHKのニュースでは気仙沼の仮設住宅の入居率は30%程度という。復興どころか、避難の段階でさえ住民との意思疎通がうまく言っていない。これでは復興までの道のりは険しいであろう。

東北を以前よりすばらしい場所にするという意気込みやよし。国民も広く期待を持って見つめている。しかし、新しい酒をもるには新しい皮がいるのだ。いっそのこと、インターネット、TwitterなどのSNSメディアを使って、各市の復興会議をオープンにしてはいかがか?会議をU-streamで中継してもいい。ニコニコ動画でもいいかもしれない。視聴者からもどんな意見でもどんどん集めたらいい。どの市のWEBを見ても書き込みさえできない一方通行の掲示板、これでは真の情報発信はおぼつかない。大事なのは住民との対話である。そして支援の熱を広く国民から得ることである。霞ヶ関での陳情の時代はもう終わったと心得るべし、である。それには全国に情報発信し、交信する必要がある。多くの人の関心さえ集まれば、人も、金も国も、動くはずである。復興予算を立てて、国の予算がこなければ、広くネット住民にふるさと納税等で寄付を求めればよい。おそらくSNSで支持の高い施策に対してはかなりの寄付が集まるのではないかと思う。

2011年6月7日火曜日

二匹目のムジナをつぶせ

3月12日の深夜、私は生まれてはじめて自分の家族を守るという意識のもとにTVを見るという経験をした。福島一号機の爆発のあと、海水注入による冷温停止という朗報を待ちこがれ、ひたすらNHKの原子力保安院の会見を見続けた。しかしTVが映し出す場面は、原子炉の水位計の値がマイナスであるという発表を繰り返し棒読みし、緊迫さもないアルバイト風の担当者(この人を二度とTVで見ることはそれ以降なかったが)の姿のみであった。記者からの、マイナスというのはどういう意味か、燃料棒が全部露出しているのかという質問に、燃料棒の長さの答えにもつまり、水位計が破損している可能性もあるので値に信憑性がないという言い訳間で持ち出し、最後は東電に問い合わせるということで場を逃げた。こんな無責任な組織が危機を管理していることに驚愕しつつ、東京から非難する可能性を考えながら、眠れぬ一夜は過ぎていったのを覚えている。数日後、友人に原子力保安院は原子力不安院に改名すべしと軽口をたたいてみたが、日本の原子力事故への対応機関がまったく無能であることの事実が軽くなるわけでもなく、不安はいっそう募るだけであった。

保安院とはいったいどういう機関でどういう能力を持っているのかは、その後の、のらりくらりした会見で少しずつ見え始めた。組織内には分析、計画、対策に関して何も能力がないというか努力した形跡もない。基本的に東電に直接発表させずに東電の情報をスクリーニングして公表するのみである。非常電源を集めもしなければ、放水車を調達するわけでもない。警察や、自衛隊に頭を下げるわけでもなく、傍観するのみ。汚染水の処理対策を立てるわけでもない。放射性物質の拡散を計測することもしない。現場は一週間一人派遣したのみであとは東電に丸投げで東電が何かミスをするとだめだよと注意をやんわりと与えるくらい。有体にいえば、官邸と東電の間にいる茶組坊主程度としか言いようがない。所詮、ローテーションで配置される経済官僚に体を張って現場に張りつくことを期待することのほうが無理なのだろう。

本日のNHKニュース9(6月6日)の報道によれば、福島の保安院オフサイトセンターは地震後、電源喪失で非常招集をかける送信装置が稼動しなかったため、緊急本部を地元の自治体と立ち上げることもできなかったとのことである。この非常事態召集は各委員の携帯電話に直接つながるようになっていたというのであるが、例え、今後非常電源を整備しても地震などの大規模災害の際に携帯がつながるはずがない。専用回線も持っていなかったのかとあきれたが、オフサイトセンターは何を目的に作ったのかと思ってしまう。電話不通事態のために開発されたのがインターネットであり、それを取り込んだシステムになっていないこと自体、ひどく時代遅れの体制といえる。更には地震後5日までには放射線量が高くなったので現場から60km離れた福島にセンターを移動した。勿論、放射線遮蔽構造も持っていなかったわけで、このシステム自体が非常時用ではない、要はおためごかしの会議室としか言いようがない。結果として、危険地域での住民の非難指導もできていない。移動して何をしていたんだろうという疑問もわく。福島の第一号機の水素爆発くらいは確認できたはずであるが、これを官邸に通報したのは警察ということになっている。

原子力保安院が経産省という原子力推進派の機関内にあることが間違いであるいう議論は耳たこであるが、内閣府に直属の原子力安全委員会が何か役に立ったかというとその結果はゼロ以下といえる。耐震基準の策定においては地震、津波という災害対応の原発の設計基準の手抜きにお墨付きを与えただけである。危機対応の面では、津波後、斑目委員長は電源喪失しても原子炉からは放射能は絶対に漏れないと首相にアドバイスしたとか、非常時には海水注入で再臨界の危険性がゼロでないといったとか、危機に際してのアドバイスも害の方が多かったとしか言いようがない体たらくである。菅首相が官邸に引きこもって、大学時代の友人を集めたというが、それは菅首相の能力の問題であろうか?まるで危機に対応できない無能で無責任な組織を引き継いだ国家元首の悲劇に同情する私は少数派のようである。しかしながら、彼をそこまで追い詰めたのは誰かということのほうが問題ではないのか?

原発事故の批判はすべて東電に集まっているが、それは正しいのであろうか?西山の頭はズラではないかというくらいで保安院、安全委員会に対する批判はあまりない。公務員の給料を下げるとしたら経産省がほとんど引き受けるべきだと誰も言わないのはなぜだ?東電にたくさん非はある。しかし、国策でなかったら、原発を東電は一機でも建てたであろうか(これについては「電力会社への質問状」の項を参照)?予期せぬ事故の際には国家を上げてバックアップしてくれるはずではなかったのか?原子力非常事態宣言は首相が発令するのだよ。現場で命を張って最後までがんばっているのは一部とはいえ、東電の社員と協力会社社員という重い事実もある。先日書いたブログ「知事抹殺」の本にも佐藤元知事が原発停止という際に県庁スタッフに「敵のムジナは二匹いる、一匹は東電だ、もう一匹は経産省だ。ほんとの敵は二匹目の方で、これには顔がなく、自分では責任を取らず、逃げるだけだ。逃がさぬように注意して戦いに挑め」と激を飛ばすくだりがある。そろそろ我々は敵の本丸を攻撃しなければ東電という死体に鞭打つ間にほんとの悪はのうのうとのさばるのではないか?ムジナの親分をつぶさなければ脱原発もなければ、原発の安全管理も保証されることはなく日本の不幸は続くであろう。ここで言う敵は保安院にいたアルバイト風の役人でもなければ、西山氏でもない。敵は保安院というシステムにある。

保安院は分離ではなく、廃止処分しかない。では今後の原発の危機管理はどこがするのか? 学者、役人が管轄する限り、危機対応は無理と見たほうがいい。ありうるとすれば、特別組織あるいは自衛隊あるいは警察ではないか。普段から危機対応を任務とし、訓練をつんでいる機関の下におくしか方法はないのではないかと思う。次回は東電の分割について書こうかと考えているが、東電も今福島原発の収束に当たっている人たちはまず別会社に分離すべきではないかと考えている。これら社員を保護、優遇する必要性からも、事故の健全な収束という国益の面からもその方が理にかなうように思う。その別会社の一部のスタッフは経験を継承するためにも、自己収束の目途がたった時点でこの原発危機管理組織に編入してもらう(天上がり)ことも必要となるであろう。新しい機構の任務は、まずは日本にある残り、48機の原発の危険度の査定と危機管理体制のゼロからの構築であり、保安院体制との決別である。悪しき安全神話を断つためにも、保安院からは一切、人を入れない形であらたな原発危機管理組織を再出発するのが望ましいと考える。

2011年6月6日月曜日

知事抹殺と原発事故

「知事抹殺」3.11の後、ずっと気になっていたこの本をやっと読むことができた。この佐藤英佐久、福島県元知事の事件を初めて耳にしたとき、「東北はいまだに古い体質を引きずっているな」という軽い軽蔑とともに知事の有罪になんの疑いも抱かなかった。しかし、第二審での判決では罪状の中心となっている土地取引による利益供与はゼロしかし有罪という不思議な判決報道に首をかしげたのを覚えている。
この本によれば、検察は県内の大型土木工事中でも、大きな木戸ダムの建設にかかわる談合とそれを仕切る天の声としての知事の役割、更には知事の直接関与を避ける為に実弟が代理人として仕切り、利益授受するという仕組みを立証して有罪へと筋道を立てていく。証拠は、供述書と土地取引のみである。実弟への利益供与は、実弟の会社保有不動産売買の際に建設会社から市場価格を上回る価格での買い上げ=利益供与という手の込んだ罪状である。この罪状、第一審では販売価格8億7千万円のうちの7千万円が利益供与と判断され、控訴審では差額はゼロ、ただし換金という利益を与えたということで有罪という、つじつまあわせのような判決が下っている。本では県の土木部長が歴代談合の元締めを行い、そこから甘い汁を吸うエージェントの人物の存在を示唆しているが、彼らは一様に検察の証人として知事からの指示を証言する。どうみてももっとも怪しいのは誰かというのが見当つきそうな単純な話を無理やりこじつけたとしか見えない。やはり、彼の逮捕も国策捜査と思わせるところが多々ありである。
前半の彼の政治家としての回顧部分はこれからの地方分権、政治のあり方を考える上でも示唆に富むところが多かった。国の下部機関としての県政から脱却し、国とイーコールパートナーとしての地方分権のあり方、道州制の危険性の指摘、知事会を通しての財源移譲の戦いなどこれまで私自身がもやもやと疑問に思っていた点についても明解な自説を展開している。ここからも確固たる政治的信条基づく優れた政治家であったことが伺える。それを裏打ちするように古い利権型の政治から脱皮し、住民主体の支持母体を基盤に福島の有権者の半数以上の得票を得て圧倒的地歩を有していた政治家としての手腕は高く評価されるべきところである。真の民主的地方分権を目指す革新的知事を失った損失は福島のみならず日本にとっても痛手である。
原発事故データの隠蔽、改竄という事件の発覚に際して、国及び東電からの重圧を撥ね退け福島原発全機停止にもっていく展開はサスペンス物を読んでいるような緊迫感が伝わってくる。佐藤元知事は反原発の知事というよりも福島県民と地方分権を獲得するために正義を貫いた結果、国家の陥穽におとしめられたということができる。なぜ、彼が東電と国を敵に回してでも原発全機停止という挙に出たか、その本質をより多くの日本人が知っていたならば、現在の原発の事故もより被害のないものに終わっていたのではないかという空想にもついとらわれてしまう。まことに残念。

2011年5月23日月曜日

電力会社さんへ、原発は継続されますか?という公開質問状

原子力の安全性については福島で実証されたことは明白なはずであるが、今もって、あれは神のなせる所行だの、菅災だのとの議論がやかましくされている。原子力については国策の名の下、立地から補償まで原始福祉政策が手厚くされているところに問題がある。

原発を有する電力会社に次の質問をしたい。

原発に関する公開質問状

1. 現在保有する原発は安全でどのような事態でも、福島のような事故にはならないと考えていますか? Yes / No
2. 原子力はベースロードをまかなう点で経済合理的な発電方式だと考えていますか?
Yes / No
1.で安全とお答えになった会社は次の質問にお答えください
3. 国の損害補償制度は打ち切った場合、原子力を独自に継続されますか?
Yes / No
2.で経済性があるとお答えの会社は次の質問にお答えください。
4. 国の放射性廃棄物処理の補助を打ち切った場合、原発を独自に継続されますか?
上記の3、4にYesと答えた会社は次の質問にお答えください。
5. 原発に起因する障害、死亡などの事故が発生した場合、業務上過失傷害、致死を、原発の設計、建設、運転、保守の責任者に厳密に課す法律を制定がされた場合においても責任をもって原発の継続をされる意向ですか?
Yes / No

ノーベル経済学者スティグリッツ教授などが指摘するように、社会の合理的な経済活動を妨げる大きな要因としてエージェント問題におけるモラルハザードがある*。この理論によれば、国を原発の依頼者、電力会社をその請負人(エージェント)とすると、電力会社にはリスクを過小評価し、安全対策を安く見積もった情報しか国(国民)に対して出さないというインセンティブが働く。なぜならば、いざという時の費用は全部国が見てくれるわけで、そうした確率的に低い(10%以下でしょうか?)を考慮した経営はむしろ、間抜けな非合理的経営ということになる。原発の事故隠し、活断層、設計基準などの情報改ざんといった行為は経済学的にはエージェントとしての合理的な経済行動なのである。つまるところ、いくら周りで騒いでも防ぐことはできないのである。

ならば、全部、経営者の個人責任でやりなさいといったほうが、本当の情報も出さざるをえないし、安全への投資も十分行われるということになる。国策という看板をおろした後も、びびることなく原発を続けられる経営はいるだろうか?

*このモラルハザードの問題は金融セクターにおいても最大の問題である。サブプライムに端を発する金融危機も無謀な貸し付けを助長する構図が要因である。今回の東電では金融不安を理由に破綻処理が進められており、Too-big-failの理屈をよく理解する銀行団はためらいもなく2兆円の貸し付けを事故後に行っている。いわばダブル・モラルハザード、アレバ社の途方もない汚染水処理システムを入れるとトリプル・モラルハザード、まあ、みんなでよってたかって国民からむしり取っているという悲惨な状況である。

2011年5月21日土曜日

東北の自立的復興

東北の復興は確かに地元だけでは不可能で国家を挙げての支援が必要である。とはいえ、とはいえ、その支援者が復興の中心になって采配を振るう必要はない。支援する側は基本的に金を出すだけでいいとさえ思う。これは避難所の支援にしてもしかり、最近Twitterで、「炊き出しの飯はいらないから、炊き出しの仕事をくれ」という被災者の方の書き込みを目にした。東北の人には遠慮するというが、助けてもらう側にしてみれば、人から同情受けるのはみじめさが伴うことは想像に難くない。彼らが望むのは一日も早い自立した生活の回復であろう。震災直後に台湾の元大統領の李登輝のメッセージの中に彼の台湾での震災対応に触れていた。彼は震災後各地の都市を回って、首長に自由に使える予算を渡し、最後の責任は彼が取るから住民ニーズに答えることを伝えて回ったという。良き指導者に恵まれた国民は幸せである。更にはがれき撤去などの作業に被災者を優先して雇用するように指示したという。人間は仕事と金がない限り、将来への展望もないのが現実だ。そのためには稼ぎの場が必要だ。被災の状況は各地でそれぞれ、つまりニーズもその優先度も千差万別である。それを中央で仕分けするのは無理だ。ひも付き補助金はいらない、好きに使える交付金でいいではないか?

日本の国民、政府ともに東北の支援に本気で取り組んでいる姿勢は素晴らしいと思うが、あまり私が私がと目立とうとせず、そろそろ地元に任せてはどうか?東京にいて「高台住宅」「エコシティ」、「鎮魂の森」を提案したりするのも結構だが、まずは地元の人からの提案するまで待とうではないか。

2011年5月20日金曜日

地熱・熱よ上がれ!

今回の東日本大震災の破壊力は自然の力の圧倒的力を見せつけた。この地震国で今の原子力発電所の組み合わせは「ウナギに梅干しの食い合わせ」「猿と犬」などには比ぶべくもない不都合な組み合わせである。地震のエネルギーがどこから来るかといえば地球のマントルの熱、それが地震となるか火山爆発として噴出する。そのエネルギーの一部は温泉となる。日本における地熱発電の総発電ポテンシャルは世界第三位、3300万KWといわれている。すべて開発されれば東電管轄の現在のベースロード分くらいはまかなえることになる。ところが開発されているのは今のところ、53万kWどまりで世界第8位、日本の総発電容量の0.2%しか貢献していない。その理由として、まずあげられるのが開発リスクとコストである。2kmほどボーリングを何度かやって当たる確率は60%程度、コストは数億円程度というのだが、これは油田開発とかに比べてなんと小さな額とリスクであろう。一度当たればほぼ無尽蔵かつ発電コストはkWhあたり10円以下、さらにはCO2も出ず、再生可能エネルギーの中で唯一安定大規模でベース運転できるといういいことづくめである。こんなすばらしい将来への資産はないのではないかとおもう。日本は孫子の代まで国債と放射性物質を大量に残す悲しい国であるが、せめて地熱発電でも残してはどうか思う。ただ地元と環境省の反対が大きな壁で、すでにある温泉が枯渇するということで草津では嬬恋での開発を阻止しているようだ。しかし、草津のような大規模温泉の横は後回しにするとしても、それ以外に日本の温泉はもうかなり寂れた場所も大きく、地元とWin-Winの関係でいく方法があるような気がする。まずは電気料金を地元には下げて上げる。たとえばkWh10円にする。会社にして株式を一部、分ける。また、補償制度を政府が作って、悪影響が出た場合には補償するというのもいいであろう。また開発可能地の8割が国立公園内といわれている。これは国立公園法を改定、景観保護に立脚した施設デザインすることで許可ということにすればよいのではないかと思われる。こうしたなかなかよさげな地熱発電だが、またもや事業仕分けの対象になっていたようだ。事業仕分けの爪痕はここにもある。
http://www.dailymotion.com/video/x9hv4n_yyyyyyyyyyyyyyyyy_news

2011年5月17日火曜日

東電コント

清水社長:ねえねえ武藤ちゃん、完全メルトダウンだって?
武藤副社長:はい、残念ながらそのような状況です。
清水社長:じゃ、核燃料はどこまでいってんの?
武藤副社長:おそらく、圧力容器は貫通、ほぼ間違いなく格納容器も抜けているかと
清水社長:えっえぇー、じゃ外に出ている?なんでそんなことになんの?
武藤副社長:なにせ燃料には崩壊熱というのがございまして、運転を停止しても自分で燃えております。温度は2800度にも達しますので、鉄の壁も溶かしてしまいます。
清水社長:格納容器の外は何なの?
武藤副社長:固いコンクリートで人工地盤になっております。
清水社長:じゃ、そこで大丈夫なわけね?
武藤副社長:いえ、コンクリートもこの温度ですと焼けて、更に燃料は下に行っているかと。はい。
清水社長:どんどん下に?
武藤副社長:ええ、どんどん下に。(ふたりでしたをうつむく)
清水社長:その下は何が?
武藤副社長:たぶん砂岩と礫岩の地層とか、地下水層とかであると思われます。地下水に交じりますと、これは海ともつながっておりますので、ますます汚染が広がり大変なことになると懸念しております。
清水社長:それは大変ねえ。でも今回は放射性物質が勝手に入って行ったんでしょう?だからこれはロンドン条約の放射性物質の海洋投棄にはあたらなんじゃないの?
武藤副社長:さあ、それはいかがなものでしょうか?
清水社長:そうよ、そうよ、これは海洋投棄じゃなくて、勝手な逃避じゃない?
武藤副社長:ただいま地下探査を実施しておりまして燃料の先端はすでに地下2kmまでに達しているもようです。
清水社長:2km! おー、それはすごい。このままマントルまでかってにいってくれないかしらねえ。
武藤副社長(電話をとるしぐさ):何?ふんふん、え?ええ?そうか、わかった。とりあえず社長にお知らせする。(社長の方をみて)社長、大変なことになりました!
清水社長:なんだ、津波、冷却装置停止、水素爆発、この上大変なことがまだあるのかあ?
武藤副社長:はい、核燃料の先端が温泉の水脈にぶつかりまして、福島第一に巨大温泉が出現したとのことです。
清水社長:え、君たち技術者はやはり視野が狭いねえ。それは久しぶりのいいニュースじゃないかあ、放射性温泉というのはからだにいらしいぞ?きみい。電力会社はつぶれたも同じだから、今度は大規模温泉に事業がえしよう。そうだ、フラガールも呼んで、そうそう、マンゴも栽培しよう。なんか元気が出てきたぞ!例の入院の予定も取り消しておかねば。。。んんんっと東国原にもPR大使になってもらおう。TV局も最近ちょっと冷たいし、広告費の予算もだいぶ余っているだろう?
武藤副社長:しかしながら、温泉となりますと監督官庁が環境省ではないでしょうか?乗り換えは経産省がおゆるしにならないと思いますが?
二人一緒に:Oh NO
(チャンチャン)
以上の登場人物は実名ですが、すべてフィクションであり、事実および科学的根拠に基づいたものではなりません。福島第一の皆さんはいつまでも応援してますよ!本社に負けるな!

合理的精神のメルトダウンを回避しよう!

民主党の細野氏が核燃料は圧力容器を破って格納器まで多少は達しているかもと発言した。しかしよく考えてみよう。ことは一番損害がないと思われていた一号機の水棺作業をしようとしたら水が半分くらいしかたまらないということで再検査したことに端を発していたはずだ。その結果なんと炉が空だったということを今更発見した。しかし、水棺作業は中の圧力容器ではなく、その外の格納容器に対して行っていたはずである。そこに水がたまらない、かつ燃料棒の完全メルトダウンとなると、論理的帰結は格納容器も損傷して水漏れしているということである。原子力村ではいまでも原子力安全神話を神棚にまつっているのであろうか?お釜はもう割れているのだ。問題は割れて燃料はどこまで達しているのか?

そろそろ客観的で論理的な思考を取り戻し、最も科学的に合理的な説明を国民に伝えた方がよいのではないか?米国ではメルトダウンだけではなく、三号機あるいは1-2号機において再臨界―核爆発が起こっていたのではないかという推測も始まっている。またもや海外が先に知って日本国民が後という知辱サイクルを繰り返すのでは、日本人の知性が世界水準に達していないという国家機密さえも漏洩していくのではないかと心配だ。

2011年5月16日月曜日

原発報道が示す日本の欠陥

菅降ろしと東電の報道についてもう少し考えてみた。

去る2週間ほど前、ちょうど初めて東電の清水社長が福島の避難所に謝罪に行った様子をニュースステーションで見ていると、映ったのは「もう済んだことは性がないんだからこれから頑張って頂戴」と手を握って励ますおばさんの絵柄。その数日前の菅首相に対して「もうかえんのか!」と、一国の首相に対してとは思えないため口を繰り返し写したニュース映像とのギャップにかなり違和感を感じた。誰が一番の責任者なのか?地震の翌日、東電の社長は官邸に対して福島第一の現場から全員撤退させたいと申し入れた。激怒した首相は、「今逃げたら、東電はないものと思え!」と怒鳴った声が会議室の外まで聞こえたということは幾多のメディアの伝えたこと。私だったら社長の胸ぐらをつかんで頬っぺたを張り倒すぐらいはやったかもしれない。ところが、メディアの報道は、イラ菅が恐喝したとかと東電に同情的で、むしろ、首相下ろしを煽情的に報道しているかにみえた。菅首相がこの時に礼儀ただしく対応し、全員退避を許したら、福島第一全部が暴走状態になっていた可能性も否定できないはずである。しかし毎日新聞以外は首相の対応を評価した報道は見ていない。これらを合わせて考えると、やはり伝えられているように大手マスメディアは東電からの大量の広告費をもらっていたという意味で共犯者であったし、ひょっとすると今もそうなのかもしれない。メルトダウンにしても、放射能の拡散にしても、ともかくすべては後で知ることになる。いまや、大手メディアに対する信頼感は地に落ちた感がある。

日本は少なくともアジアの中では民主主義と言論の自由という面では先進国であると信じていたが、この私の純朴な認識も今、崩れつつある。大事なことは常に大衆には知らしめないような巧妙な仕組みが張り巡らされている。この数年、一年ごとに首相が変わるという異常事態が続いた日本であるが、これは政治家の無能さだけが理由ではないようだ。メディアにとって、政治家、有名人をいじめるのが一番コストもリスクも低くて大衆が喜ぶので、あることないことを報道して、何とか視聴率あるいは販売部数を伸ばそうとした努力の帰結に他ならないのかもしれない。これは小学校のいじめの大人版以外何物でもなく、成熟した民主主義とは似て非なるものである。更にいえば、東電からはお金をたくさんもらえるが、菅首相からはお金をもらうことができない。言論の自由は歪曲され、資本主義的情報操作が横行しているということでもある。

幸い、今はネットという大衆に開かれたメディアがある。このプラットフォームからメディアの虚偽を暴くことは期待できるかもしれない。このブログの動機もそうした危機感に基づいている。自分の頭で考え、正々堂々と議論する開かれた社会を再構築しなければ、日本は坂道を転げ落ちるしかない。そして、新しい社会の在り方を考える国民が増えていけば、この未曾有の災いも福となせるかもしれない。

2011年5月15日日曜日

完全メルトダウン 

政府の東電存続と国家補償きまり、ほっとしたのか東電は早速、1-3号機まで
全部メルトダウンしているかもとあっさり発表。完全にメルトダウンで、下にある人工地盤がひび割れだと
もう後はいくら上からやってもだめではないか?チェルノブイリの300倍でしたか総放射性物質の量は?
この放射性物質が徐々に海洋に放出。すし文化もおしまいとは皮肉な話。すしやで今夜は
一万ベクレルにぎってと江戸っ子はみえをきるかもしれないが。
半分くらい海洋に放出してもおそらく誰もすぐには死なないだろうが、日本の世界での
地位は経済を含めてかなり低下するであろう。世界中から何とかこれを処理する方法を日本は強要されるだろうが砂金を川から救うごとく効率の悪い延々とした終わりのない作業。ODAどころではない。毎年数千億円を垂れ流し続けるような国威掲揚上最悪の状態が続くことも十分あり。失われた15年の後には失い尽くす20年が待っているかもしれない。やはり早い段階でタンカーでも持ってきてガンガン水を入れるような軍事作戦が必要だったかもといまさらに思う。自分のボーナスを半分にしかできないマネジメントに国家の大事は理解できない。だから海水を入れるのをためらって会社のみならず国家をつぶすがそれでも自分の方がかわいい。所詮民間にはとてもできない仕事だったのだ。
日本よ、さあこれからどうするか?本当の英知が必要だ。

2011年5月14日土曜日

菅降ろしは意味があるのか?

メディアの論調を見ると、全体的に我が国の首相に対して厳しい態度である。田原総一郎氏をはじめとした評論家の論評も手厳しい。しかし、菅首相になるべき次の首相候補はだれであるのであろうか?自民党から民主党、そして歴代の首相を見ていると二つの流れがある。一つは政官蜜月政治からの脱却、そして若返り。結果として今回の大地震、津波、原発と同時に幾多の危機が訪れた時に行政ネットワークと決別していた官邸は機能麻痺の状況となった。確かに亀井静香のような伝統的な親分型政治家だったらもっとうまく官僚を使いこなしてうまく危機対処したかもしれない。阪神淡路の時の村山首相だったらどうだったであろうか?東電の福島からの撤退を許して、とうに6基の原発が制御不能のメルトダウンと爆発を繰り返し、東京都民の避難という事態になっていたかもしれない。
危機管理体制のできていなかった東電という巨大企業VS官邸という構図で原発事故処理の構図は続いているが、第一義的な事故責任は東電であり、官邸ではない。今回のメルトダウンの原因は海水注入が長時間できなかったことが最大の原因である。今頃東電は言い訳をしているようであるが、トップの決断が遅れたこと、それが無知に基づくものなか、臆病さ故なのかは事故調の調べてある程度は明らかになってくるはずである。3月の段階では菅首相の現場訪問がベントを遅らせたという報道がTV、新聞を占めて、首相の人災であるという認識が日本全体にいきわたった。その後の原発報道から明らかになったように大手メディアは菅首相に極めて厳しく、東電にとても優しい。
結論からいえば、菅降ろしは、首相一人の首をはねることで後は不問にして国民の怒りを鎮めるという古来の政治に他ならない。それでも気が収まらなければ、おそらくは清水社長の首が差し出されるであろう。あるいは東電の整理ということになるかもしれない。それで憂さを晴らした国民は原発補償、廃炉費用と高いつけを払い続けさせられることになる。
この国が先進国として生き残るとしたら、社会改革しか残された道はない。今、国民的な意識の変化と改革へのコミットメントが
形成されなければ、日本はかつてのポルトガルと同じようにずるずると坂道を落ちていくであろう。
首相下ろしはその回答ではない。