菅降ろしと東電の報道についてもう少し考えてみた。
去る2週間ほど前、ちょうど初めて東電の清水社長が福島の避難所に謝罪に行った様子をニュースステーションで見ていると、映ったのは「もう済んだことは性がないんだからこれから頑張って頂戴」と手を握って励ますおばさんの絵柄。その数日前の菅首相に対して「もうかえんのか!」と、一国の首相に対してとは思えないため口を繰り返し写したニュース映像とのギャップにかなり違和感を感じた。誰が一番の責任者なのか?地震の翌日、東電の社長は官邸に対して福島第一の現場から全員撤退させたいと申し入れた。激怒した首相は、「今逃げたら、東電はないものと思え!」と怒鳴った声が会議室の外まで聞こえたということは幾多のメディアの伝えたこと。私だったら社長の胸ぐらをつかんで頬っぺたを張り倒すぐらいはやったかもしれない。ところが、メディアの報道は、イラ菅が恐喝したとかと東電に同情的で、むしろ、首相下ろしを煽情的に報道しているかにみえた。菅首相がこの時に礼儀ただしく対応し、全員退避を許したら、福島第一全部が暴走状態になっていた可能性も否定できないはずである。しかし毎日新聞以外は首相の対応を評価した報道は見ていない。これらを合わせて考えると、やはり伝えられているように大手マスメディアは東電からの大量の広告費をもらっていたという意味で共犯者であったし、ひょっとすると今もそうなのかもしれない。メルトダウンにしても、放射能の拡散にしても、ともかくすべては後で知ることになる。いまや、大手メディアに対する信頼感は地に落ちた感がある。
日本は少なくともアジアの中では民主主義と言論の自由という面では先進国であると信じていたが、この私の純朴な認識も今、崩れつつある。大事なことは常に大衆には知らしめないような巧妙な仕組みが張り巡らされている。この数年、一年ごとに首相が変わるという異常事態が続いた日本であるが、これは政治家の無能さだけが理由ではないようだ。メディアにとって、政治家、有名人をいじめるのが一番コストもリスクも低くて大衆が喜ぶので、あることないことを報道して、何とか視聴率あるいは販売部数を伸ばそうとした努力の帰結に他ならないのかもしれない。これは小学校のいじめの大人版以外何物でもなく、成熟した民主主義とは似て非なるものである。更にいえば、東電からはお金をたくさんもらえるが、菅首相からはお金をもらうことができない。言論の自由は歪曲され、資本主義的情報操作が横行しているということでもある。
幸い、今はネットという大衆に開かれたメディアがある。このプラットフォームからメディアの虚偽を暴くことは期待できるかもしれない。このブログの動機もそうした危機感に基づいている。自分の頭で考え、正々堂々と議論する開かれた社会を再構築しなければ、日本は坂道を転げ落ちるしかない。そして、新しい社会の在り方を考える国民が増えていけば、この未曾有の災いも福となせるかもしれない。
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