2011年9月4日日曜日

「原発論争」と「夫婦ゲンカ」の相似性

とある中小企業経営者の一家の台所のシーン。
近年の不況で会社の経営は青息吐息である。疲れた表情で帰ってきた夫に奥さんが畳み掛ける。
妻:「ねえ、あんたまた飲んで来たの?」
夫:「仕方ないだろ。営業なんだから!」
妻:「お酒飲んで午前様ばかりじゃ、命を切り売りしているようなものじゃないの?あなたはいつもお金、お金と儲けの話ばかりだけど、健康あってのお金でしょう?子供の教育は全部私に押し付けて。子供のことは心配じゃないの?」
夫:「毎日営業で駆けずり回ってもなかなか契約も取れない。借金を返したら、今月の給料が払えるかどうかさえ危ういところなんだ。、今度の営業を逃すと大変なことになるんで必死なんだよ」
妻:「今のうちに商売替えでもしたらどうなの?たとえば介護とか、今後伸びるような分野に乗り出すとか?」
夫:「そんな、そんな不慣れなことに手を出しても、すぐつぶれちゃうよ。今はともかく生き残りで必死なんだ。」
妻:「会社なんてつぶれても家族さえしっかりしていれば何とかなるわ。いざとなったら私の実家にひきあげたっていいし。」
夫:「今まで贅沢ができたのは誰のおかげだと思ってんだ?生活レベルを落として家族が満足するとは思えないよ。」
いつまでたっても議論は平行線のまま、やがて家族内不信の渦はどんどん拡大していく。

中小企業を「日本」、接待営業は「原発」、夫は「経団連+経産省」、妻は「自然エネルギー推進市民団体、そして子供もつ全国のお母さんたち」に置き換えてみると、今の原発論争の構図ではないかと思う。

新興国の追い上げ、そこに加えての円高による日本企業の海外移転の加速、風評被害による輸出の落ち込みなどなど企業を取り巻く環境は大変に厳しいものがある。それに追い打ちをかけているのがこの夏の節電、そして電力料金の値上げ問題である。日本に競争力のある企業は残るのか?

企業は基本的に金の流れが止まるとあっという間に死に絶えてしまう。大口の契約をなくしてしまえば、企業の生命など数か月の運命である。収入なしに1年も持つような余裕のある企業などまず存在しない。日々の稼ぎが企業の生命線である。したがってともかく電気をくれ、何とか客先を日本においておいてくれということになる。一方、子供を育てる母親たちは、子供の将来という20年先、いや一生が視野に入っている。子供が何をやっていてもいい、金持ちでなくてもいい。健康でさえいてくれればと願うのが母親というものであろう。したがって原発何という危ないものは許容の外である。

目先の稼ぎ(しのぎ?)で頭がいっぱいの夫と何十年先のことを考えてる妻の間の議論はかみ合うことがない。以上はNHKの新生日本という番組のエネルギー討論を見ながら、これはいわゆる互いの立場を理解しない夫婦げんかに近いという感想を抱いて思いついたことである。

では解決策はあるのであろうか?喧嘩には仲裁が必要であろう。双方が相手の立場を尊重する態度しか
あゆみよりはない。原発再開も新しいもの、活断層から離れている安全性の高いものははとりあえず再開容認、その代り、今稼働する古い玄海一号などは停止と、合理的な判断をすべきである。さらに福島の事故調の結果をみて停止の是非を考えればよい。そうした道筋をちゃんと国民に確約すれば、反対派も説得できるはずである。

そして仲裁だけでなく、目先しか見ることができない夫=経済界には、手を差し伸べる必要がある。環境、医療、放射性廃棄物の除染、介護、再生可能エネルギーなど、あらたな糧を得る方法を支援できれば目からうろこで新しい商売にもチャレンジする意欲がわいてくるというものである。

そのために一番合理的なことが規制緩和と起業支援である。たとえば地熱、国立公園での開発は難しいが景観修復を条件に許可を積極的におろせば、国の予算は必要ない。たとえば、放射性物質の測定、アイソトープセンターの児玉先生の言われるように日本の画像技術と測定技術を用いれば世界に冠たる産業になるであろう。たとえば、ロボットの除染への応用などいくらでも新しい仕事は創出しうる。仕事を作るための規制緩和、安全な生活を確保するための規制を組み合わせることで雇用も創出できるはずである。

調停をし、めんどうみのいいおじさんに野田政権がなれるかどうかに脱原発の行方も日本の産業の行方もかかっている。

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