2011年9月17日土曜日

日本マスメディア向上計画

日本のマスメディアをどうしたらいいのか?先ごろの経産省大臣の舌禍事件でますます暗澹たる気持ちになってきた。昔、昔、私が就職したばっかりのころ、友人がとある大新聞に就職した。彼の話によると、まず新聞記者は夜討、朝駆が基本でともかく、担当の政治家について回るのだという。自分の書いた原稿は校了した後も印刷にかけられる深夜まで待機するというとのことであった。いつ寝るのと聞けば、車とかの移動中ということだった。という彼は、酒を飲みながら、寝込んでしまった。

現代のように変化の激しい世界では常に新しい知識を勉強しなければ時代から取り残される。寝る時間もない記者が本を読んだりして勉強する時間はあるのであろうか?おそらくないであろう。一方、記者クラブに出入りできるメディアは、官庁の大本営発表をそのまま流せば、とりあえずは紙面は埋まり、TVの時間は稼げる、何もしなくても日々の糧は稼げるわけである。となるとますます勉強することはなくなるのは人間の性である。しかしそんな報道ばかりでは読者も飽きてくるので、時たまスクープを打つ必要がある。その恰好の題材がスキャンダルであるが、昨今は愛人を囲うような度量のある政治家も少ない。となれば、金の問題か、失言ということがよいシノギになるということではないか。まして首相の首を取ればきっと報奨金くらい出るのであろう。日本の首相がころころ変わるのは彼らの力が弱くなったこともあるであろうが、メディアの読者、視聴者確保の営業材料に具されているだけである。漢字が読めないとか、英語を間違えたとか、低俗なアラさがしでまずは下地を作っておいて、より大きなミスでドカンと落とす。あとは仕上げを待つだけ。メディアはいつから首狩り族になったのであろうか?ただ、それを喜んでいる国民がまだいるとしたら、新聞紙にくるんで捨てるべきである。

もう一つの問題は、ウルフォンセン等の外人の政治学者がよく指摘している点であるが、日本の記者は政治の情報を国民に伝えることではなく、政治を動かすことを動機として仕事をしているいう点である。ナベツネとかはキングメーカーとして有名であるが、自分が祭り上げるのに関わった総理大臣のことについて客観的な報道ができるのか?答えは小学生でもわかるであろう。しかし、政治にかかわりたがっているのはナベツネだけではない。個人的な経験では、ある勉強会で、NHKの記者が、大臣をはめた話を披露しているのを聞いたことがある。自分の推し進めている福祉改革に対する質問に半分ひっかけで、大臣から言質を奪った経験を得意げに話していた。確かに多くの人が彼女の進める方向性は正しいように思ったのだが、そのために報道はゆがめていないのか?われわれは真実を知っていたのか?という疑問が残る。

今回の原子力村騒動で、自分自身の原発の知識の貧弱さに愕然とした。同時にマスメディアの歪みを多くの人が認識するようになったのはよいことだったと思う。われわれが愚民であるとしたら、その判断能力を問う前に、まずは正確な情報が得られているかどうかを問わねばならない。いっそのこと新聞、TVを見ないという運動もいいのではないかと思ったりするが、そうすると経済的に困窮して彼らはますますイエロージャーナリズムに走っていくであろう。

解決策はまずは記者クラブを廃止すること。次は新聞社等が証拠の整備をすすめるように多くの人が名誉棄損で訴えられるようにしたらどうであろう。なかなか妙案はない。有徳の金持ちが出資してスキャンダルは大きく取り扱わない、政策を取り上げるということを社是にするメディアでもつくってくだらないメディアを淘汰するしかであろう。

トマス・ジェファソンは出版の自由の必要性について、1787年に「新聞のない政府と、政府のない新聞のどちらをとるか、もしその判断を任されたなら、私は,瞬時のためらいもなく、後者を選ぶだろう」という有名な言葉を残した。そう思えるメディアが一つでいいからほしい。

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