連日東京新聞が経産省、保安院の非倫理的な組織行動について追及を続けている(2011.7.29現在)。経産省のTwitter, ブロガ―の情報監視に続き、中電、四電でのやらせ公聴会指示問題と追及の手は止まない。完全にバイアスのかかった原発ありきの情報操作を行ってきたことが白日の下にさらされることになった。政府は保安院を分離することだけで乗り切るのかきわどいところまで追い込まれ始めている。
異端のエコノミスト、シュンペーターは資本主義の強さの源泉は市場メカニズムの破壊力にあると看破した。社会に不適応を起こした企業、製品は市場から淘汰されることにより、新しい産業、製品の創造の契機となるというものである。どんな老舗の企業でも社会環境の変化についていけなくなれば、商品が売れなくなり、最後は倒産する。倒産することは多くの不幸な失業者と家族を生み出すという悲劇を生む。しかし、倒産は個々の企業にとっては悲劇であるが、資本主義社会全体では必要不可欠な仕組みである。社会のニーズに合わなくなった企業を市場から退出させることにより、無駄な資源が使われることを最小化することができるようになる。不要な組織を抹消することで新たな組織=企業が生まれる素地を用意することになり、産業全体の活性化が図られていく。生物の種においての個体の死とあるいは生物個体と細胞の死と関係資本主義経済における企業の倒産は同じ関係にあるといってもいい。個々の死があるから種としてあるいは一匹
の生命の健全性が保たれる。企業の死は必ずしも社会にとって悪いことではない。
同じように民主主義という政治機構は選挙民の支持を失った政治家を瞬くまに政治の舞台から抹殺する破壊力を持っている。どちらも小規模の破壊を常に繰り返すことで経済、政治体制全体の鮮度を保つという機能を持っている。前近代的な社会は、破壊-改革とう機能がなかったため、破滅寸前まで社会全体が衰退し、革命を持って再生が始まるという犠牲の大きいものであった。しかし、現在でも決して死なない組織がある。官僚組織である。
一度作られた官僚組織は容易にはなくならない。生物学的に言えば「癌細胞」に似ている。通常の細胞はアポートシスと言って傷ついたり、不要になったりすると自殺するプログラムが埋め込まれている。癌はそのアポートシスによる制御が効かなくなったために増殖し続け、細胞の母体全体の生命を最後は奪い取る。官僚組織も増大化のみを自己目的化した組織であり、自分自身でその存続に終止符を打つことはない。
国民的の視野からすれば本来不要になった官僚組織は廃止にすべきである。まして反社会的な行動をとった組織を温存するのは犯罪的でさえある。基本的に公務員が政策を誤って、国民に被害を与えても官僚個人は免責される。情報隠し、詐称、やらせを行っても官僚組織が責任を追及されることもない。検察は民間組織を挙げても公的組織を背任行為として訴追することはない。政府機関が政府のあらさがしをするのは自己否定であるからであろうか。今回の原発事故の原因も経産省と保安院、更には文科省、原子力安全委員会といった組織の罪が大きいのは明らかである。原発推進のために耐震基準、事故調査、建設許可すべてで手抜きをしていたという指摘があるにもかかわらず、メディアの官僚組織の責任追及の少なく、議論はとかく政治家と電力会社に集中しがちである。
現代の経済はIT技術の急速な進歩、グローバルな企業間競争の激化とその変化のスピードは加速する一方である。日本が世界の経済覇権を握るのではないかと畏怖されたのもほんの20年前である。いまや韓国、中国の後塵を拝して日本の経済は今や窒息寸前である。日本企業の必死の生き残りを傍目に綿々と古色蒼然した組織を維持することのみ注力しているのが官僚組織である。現在、公的部門の影響は公共事業、社会福祉など直接的な関与のみならず規制、認可と実体経済のほとんどに及んでいる。日本経済の生産性を高めていくには、行政の生産性を高めるしかない。なぜソ連の共産主義はほろんだのか?イデオロギーは別として、共産主義は基本的に官僚が資源の配分を決定する仕組みであるからだ。官僚組織は滅びない、不要なものも生き続けるために、資源の無駄遣いが続く。その一方社会のニーズは変化するので新たなサービスを提供するには新たな官僚組織が必要となる。古いものを消さずに次々と新たな官僚組織を付け加えれば社会の生産性は次第に落ちていく。現在の政府の予算は特別会計を合わせると200兆円を超えている。GDPの半分近くが官僚組織の裁量で決定されているわけである。日本は半分共産主義の国といっても過言ではない。
官僚組織のラジカルな破壊と創造を行うには強い政治力しかない。民主党の政治主導はまさにそれを目指したはずであるが、現実には完全に官僚の言いなり状態に陥っている。今回の福島の悲劇は日本人に、日本の危機を自分自身で救うことができるのかという真摯な問いを投げかけた。私は政府自体の抜本的な改革は避けて通れないと思ったが、結果はかなり悲惨だ。国民も菅降ろしの政争劇に目を奪われて問題の本丸を見逃している。リーダーさえ立派だったら政府がどうにでもなるという幻想に惑わされている。一つにはメディアの報道力がないため、個人責任追及型の報道しかできないからである。もう一つは日本には大学を含めて、真の政策検証能力がないからである。まずは福島原発の責任を官僚個人ではなく、組織に負ってもらう必要がある。大胆な官僚組織の廃止、まずは原子力保安院・安全委員会の廃止が第一歩であろう。
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