2011年6月29日水曜日

原発を再開すべきか?=2開1停の暫定的再開・停止基準のすすめ

最近海江田経産大臣は原発の再稼働を促しているが、これは経産省と産業界の短期的な利害を代表するだけで国民の安全を守る政治家のトップとしての資質を疑わせる言動である。福島原発は津波による全電源喪失の前に地震によって既に主要な配管等に破損があった可能性が高く、その意味において現在の耐震基準で補強された原発の安全性は未だに確保されていない。不確実性の高いものを安全ということは1000年に一回の津波を無視する以上に無謀であろう。筋論からいえば、事故調、安全基準の見直しが終わるまでは原発の再開は大きな不安要素を抱えることになる。一方、事故調、現在の基準の見直しが終わるまでは、何も運転できないとなると電力不足で原発推進派のみならず、日々の営業に汗を流す産業界からも電力の安定供給に不安の声が上がるであろう。
となれば、まずは暫定的原発再開・停止基準を設けることが現実的な妥協策ではないか?古い原発、活断層に近いリスクの高い原発から優先的に停止指示を与える一方で安全度の高そうな原発から運転を再開するのはどうであろう。週刊現代先週号の報道では,玄海1号、美浜1,2号、大飯2号、高浜1号機と中性子被ばくで老朽化、脆性破壊の可能性の高い原発がごろごろしているらしいし、伊方原発も中央構造帯の真上と活発化する知地震大国日本は多くのリスクをはらんだままである。もんじゅ、六ヶ所村も相当怪しげだ。
当面は2増1減程度の目安で特に危険性の高いものは停止していくというのを電力会社に提示する。電力会社の方は全面再開を要求すれば、すべての責任は電力会社に投げられることになり、そうした強行突破をする勇気は電力会社にはないだろう。この妥協案でとりあえず、危険な原発をとめ、ある程度の電力供給力は確保する。最も危険な原発を止めることで脱原発派も一応安心、更には産業界も安心。脱原発か原発推進課という二者択一的、煽情的なプロパガンダの横行する国政も当面回避することができる。

この妥協策でこの先2-3年の電力供給体制をしのいでいる間に、事故調査の結論、安全基準の改定をじっくりやればよい。また原発の本当のコストというのもはっきりしてくるはずだ。その結論を待って国民の間でじっくりと脱原発についても納得がいくまで議論すればよい。原発の再開を急ぐと再開した事実に安全基準を合わせる、あるいは事故調の答申を解釈しなおすという結論の逆流が起きかねないのが日本の原子力村の道理である。そうした抑圧的な政治は震災後の日本を二分する危うい政治に他なならない。脱原発派はますます政治不信に陥るであろう。政治不信の拡大は戦前のようにデモクラシーは破たんの危機を迎えるであろう。

今、政治家には現実をさばくプラグマチズムが最も必要とされている。それは国全体を思う知性と勇気の発露に他ならない。

2011年6月17日金曜日

消費税よりも節税節制

我々中小起業者は税金に対して敏感だ。そして誰でも大なり小なりやっているのが節税だ。でも中には無駄な節税も多い。期末になると、無理してでも備品を買ったり、発注したり。中にはたいした利益をだしてもいないのにばかでかい金庫を買ったりするところもある。どうせ経費だからと外車を買うくらいならば、個人目線で、社用車に国産車を買えば、国内消費も喚起されるし、利益も多少はでるだろう。税収が年間30兆円しかない国は震災対策の財源に消費税を増税しようと躍起である。消費税は間違いなく、消費者マインドを冷え込ませ、どの企業の売り上げも直撃する。それを回避するために、節税を少しゆるめて、ほどほどにすることはできないものか?と、一零細起業者である私も考えているところである。

2011年6月8日水曜日

地産構想で復興構想会議をぶっ飛ばせ

まずは増税で始まった国の復興会議、高台住居、エコカーで高台から漁港通勤、瓦礫で鎮魂の森とか、土地勘のないお話が当然のことながらオンパレード。補正予算はといえば補助金付け。三位一体の改革をはじめとする地方分権を民主党は党是にしていたはずなのに、地方主体の視点はまったく見られない始末。旧態依然の上から目線である。
復興構想会議なぞ頼りにしなくとも地元は地元で最善の復興案を立てて、むしろ国に押し付けるくらいでちょうどいいのではないかと思う。島原市は普賢岳の噴火の災害復旧の際に完全な地元のイニシャチブで93ヘクタールの安中三角といわれる被災地の再生に成功している。土石流で押し寄せた土砂で平均6mのかさ上げを行い、新たな土地を作り上げたという。総埋め立て量526万立方メートル、これは今回の震災で発生した瓦礫の約5分の一弱。地元だからできる大胆な発想、国の抵抗を押し切って92億円勝ち取った結果の成果である。東北も安中三角の精神に見習うべしである。

被災した各市でも復興計画が立てられていることは新聞記事で散見するが、漠然とした内容しか報道されていない。スケジュールも予算もおそらくまだ議論をする余裕がないのであろうと推察される。国の計画がどう連携するのか、予算とはどうつながるのかは判然としない点も多すぎる。今回、震災、原発では政府が情報通達、開示でいたるところで躓いている。隠しているだけではないのであろうが、伝えてやるという態度を改めて、話を聞く、対話をするという態度をもてば、おそらく多くの問題が深刻化しなかったのではと思う。復興計画も国、県レベルともに行政のみの視点では、実施の際に必ず齟齬が出る。NHKのニュースでは気仙沼の仮設住宅の入居率は30%程度という。復興どころか、避難の段階でさえ住民との意思疎通がうまく言っていない。これでは復興までの道のりは険しいであろう。

東北を以前よりすばらしい場所にするという意気込みやよし。国民も広く期待を持って見つめている。しかし、新しい酒をもるには新しい皮がいるのだ。いっそのこと、インターネット、TwitterなどのSNSメディアを使って、各市の復興会議をオープンにしてはいかがか?会議をU-streamで中継してもいい。ニコニコ動画でもいいかもしれない。視聴者からもどんな意見でもどんどん集めたらいい。どの市のWEBを見ても書き込みさえできない一方通行の掲示板、これでは真の情報発信はおぼつかない。大事なのは住民との対話である。そして支援の熱を広く国民から得ることである。霞ヶ関での陳情の時代はもう終わったと心得るべし、である。それには全国に情報発信し、交信する必要がある。多くの人の関心さえ集まれば、人も、金も国も、動くはずである。復興予算を立てて、国の予算がこなければ、広くネット住民にふるさと納税等で寄付を求めればよい。おそらくSNSで支持の高い施策に対してはかなりの寄付が集まるのではないかと思う。

2011年6月7日火曜日

二匹目のムジナをつぶせ

3月12日の深夜、私は生まれてはじめて自分の家族を守るという意識のもとにTVを見るという経験をした。福島一号機の爆発のあと、海水注入による冷温停止という朗報を待ちこがれ、ひたすらNHKの原子力保安院の会見を見続けた。しかしTVが映し出す場面は、原子炉の水位計の値がマイナスであるという発表を繰り返し棒読みし、緊迫さもないアルバイト風の担当者(この人を二度とTVで見ることはそれ以降なかったが)の姿のみであった。記者からの、マイナスというのはどういう意味か、燃料棒が全部露出しているのかという質問に、燃料棒の長さの答えにもつまり、水位計が破損している可能性もあるので値に信憑性がないという言い訳間で持ち出し、最後は東電に問い合わせるということで場を逃げた。こんな無責任な組織が危機を管理していることに驚愕しつつ、東京から非難する可能性を考えながら、眠れぬ一夜は過ぎていったのを覚えている。数日後、友人に原子力保安院は原子力不安院に改名すべしと軽口をたたいてみたが、日本の原子力事故への対応機関がまったく無能であることの事実が軽くなるわけでもなく、不安はいっそう募るだけであった。

保安院とはいったいどういう機関でどういう能力を持っているのかは、その後の、のらりくらりした会見で少しずつ見え始めた。組織内には分析、計画、対策に関して何も能力がないというか努力した形跡もない。基本的に東電に直接発表させずに東電の情報をスクリーニングして公表するのみである。非常電源を集めもしなければ、放水車を調達するわけでもない。警察や、自衛隊に頭を下げるわけでもなく、傍観するのみ。汚染水の処理対策を立てるわけでもない。放射性物質の拡散を計測することもしない。現場は一週間一人派遣したのみであとは東電に丸投げで東電が何かミスをするとだめだよと注意をやんわりと与えるくらい。有体にいえば、官邸と東電の間にいる茶組坊主程度としか言いようがない。所詮、ローテーションで配置される経済官僚に体を張って現場に張りつくことを期待することのほうが無理なのだろう。

本日のNHKニュース9(6月6日)の報道によれば、福島の保安院オフサイトセンターは地震後、電源喪失で非常招集をかける送信装置が稼動しなかったため、緊急本部を地元の自治体と立ち上げることもできなかったとのことである。この非常事態召集は各委員の携帯電話に直接つながるようになっていたというのであるが、例え、今後非常電源を整備しても地震などの大規模災害の際に携帯がつながるはずがない。専用回線も持っていなかったのかとあきれたが、オフサイトセンターは何を目的に作ったのかと思ってしまう。電話不通事態のために開発されたのがインターネットであり、それを取り込んだシステムになっていないこと自体、ひどく時代遅れの体制といえる。更には地震後5日までには放射線量が高くなったので現場から60km離れた福島にセンターを移動した。勿論、放射線遮蔽構造も持っていなかったわけで、このシステム自体が非常時用ではない、要はおためごかしの会議室としか言いようがない。結果として、危険地域での住民の非難指導もできていない。移動して何をしていたんだろうという疑問もわく。福島の第一号機の水素爆発くらいは確認できたはずであるが、これを官邸に通報したのは警察ということになっている。

原子力保安院が経産省という原子力推進派の機関内にあることが間違いであるいう議論は耳たこであるが、内閣府に直属の原子力安全委員会が何か役に立ったかというとその結果はゼロ以下といえる。耐震基準の策定においては地震、津波という災害対応の原発の設計基準の手抜きにお墨付きを与えただけである。危機対応の面では、津波後、斑目委員長は電源喪失しても原子炉からは放射能は絶対に漏れないと首相にアドバイスしたとか、非常時には海水注入で再臨界の危険性がゼロでないといったとか、危機に際してのアドバイスも害の方が多かったとしか言いようがない体たらくである。菅首相が官邸に引きこもって、大学時代の友人を集めたというが、それは菅首相の能力の問題であろうか?まるで危機に対応できない無能で無責任な組織を引き継いだ国家元首の悲劇に同情する私は少数派のようである。しかしながら、彼をそこまで追い詰めたのは誰かということのほうが問題ではないのか?

原発事故の批判はすべて東電に集まっているが、それは正しいのであろうか?西山の頭はズラではないかというくらいで保安院、安全委員会に対する批判はあまりない。公務員の給料を下げるとしたら経産省がほとんど引き受けるべきだと誰も言わないのはなぜだ?東電にたくさん非はある。しかし、国策でなかったら、原発を東電は一機でも建てたであろうか(これについては「電力会社への質問状」の項を参照)?予期せぬ事故の際には国家を上げてバックアップしてくれるはずではなかったのか?原子力非常事態宣言は首相が発令するのだよ。現場で命を張って最後までがんばっているのは一部とはいえ、東電の社員と協力会社社員という重い事実もある。先日書いたブログ「知事抹殺」の本にも佐藤元知事が原発停止という際に県庁スタッフに「敵のムジナは二匹いる、一匹は東電だ、もう一匹は経産省だ。ほんとの敵は二匹目の方で、これには顔がなく、自分では責任を取らず、逃げるだけだ。逃がさぬように注意して戦いに挑め」と激を飛ばすくだりがある。そろそろ我々は敵の本丸を攻撃しなければ東電という死体に鞭打つ間にほんとの悪はのうのうとのさばるのではないか?ムジナの親分をつぶさなければ脱原発もなければ、原発の安全管理も保証されることはなく日本の不幸は続くであろう。ここで言う敵は保安院にいたアルバイト風の役人でもなければ、西山氏でもない。敵は保安院というシステムにある。

保安院は分離ではなく、廃止処分しかない。では今後の原発の危機管理はどこがするのか? 学者、役人が管轄する限り、危機対応は無理と見たほうがいい。ありうるとすれば、特別組織あるいは自衛隊あるいは警察ではないか。普段から危機対応を任務とし、訓練をつんでいる機関の下におくしか方法はないのではないかと思う。次回は東電の分割について書こうかと考えているが、東電も今福島原発の収束に当たっている人たちはまず別会社に分離すべきではないかと考えている。これら社員を保護、優遇する必要性からも、事故の健全な収束という国益の面からもその方が理にかなうように思う。その別会社の一部のスタッフは経験を継承するためにも、自己収束の目途がたった時点でこの原発危機管理組織に編入してもらう(天上がり)ことも必要となるであろう。新しい機構の任務は、まずは日本にある残り、48機の原発の危険度の査定と危機管理体制のゼロからの構築であり、保安院体制との決別である。悪しき安全神話を断つためにも、保安院からは一切、人を入れない形であらたな原発危機管理組織を再出発するのが望ましいと考える。

2011年6月6日月曜日

知事抹殺と原発事故

「知事抹殺」3.11の後、ずっと気になっていたこの本をやっと読むことができた。この佐藤英佐久、福島県元知事の事件を初めて耳にしたとき、「東北はいまだに古い体質を引きずっているな」という軽い軽蔑とともに知事の有罪になんの疑いも抱かなかった。しかし、第二審での判決では罪状の中心となっている土地取引による利益供与はゼロしかし有罪という不思議な判決報道に首をかしげたのを覚えている。
この本によれば、検察は県内の大型土木工事中でも、大きな木戸ダムの建設にかかわる談合とそれを仕切る天の声としての知事の役割、更には知事の直接関与を避ける為に実弟が代理人として仕切り、利益授受するという仕組みを立証して有罪へと筋道を立てていく。証拠は、供述書と土地取引のみである。実弟への利益供与は、実弟の会社保有不動産売買の際に建設会社から市場価格を上回る価格での買い上げ=利益供与という手の込んだ罪状である。この罪状、第一審では販売価格8億7千万円のうちの7千万円が利益供与と判断され、控訴審では差額はゼロ、ただし換金という利益を与えたということで有罪という、つじつまあわせのような判決が下っている。本では県の土木部長が歴代談合の元締めを行い、そこから甘い汁を吸うエージェントの人物の存在を示唆しているが、彼らは一様に検察の証人として知事からの指示を証言する。どうみてももっとも怪しいのは誰かというのが見当つきそうな単純な話を無理やりこじつけたとしか見えない。やはり、彼の逮捕も国策捜査と思わせるところが多々ありである。
前半の彼の政治家としての回顧部分はこれからの地方分権、政治のあり方を考える上でも示唆に富むところが多かった。国の下部機関としての県政から脱却し、国とイーコールパートナーとしての地方分権のあり方、道州制の危険性の指摘、知事会を通しての財源移譲の戦いなどこれまで私自身がもやもやと疑問に思っていた点についても明解な自説を展開している。ここからも確固たる政治的信条基づく優れた政治家であったことが伺える。それを裏打ちするように古い利権型の政治から脱皮し、住民主体の支持母体を基盤に福島の有権者の半数以上の得票を得て圧倒的地歩を有していた政治家としての手腕は高く評価されるべきところである。真の民主的地方分権を目指す革新的知事を失った損失は福島のみならず日本にとっても痛手である。
原発事故データの隠蔽、改竄という事件の発覚に際して、国及び東電からの重圧を撥ね退け福島原発全機停止にもっていく展開はサスペンス物を読んでいるような緊迫感が伝わってくる。佐藤元知事は反原発の知事というよりも福島県民と地方分権を獲得するために正義を貫いた結果、国家の陥穽におとしめられたということができる。なぜ、彼が東電と国を敵に回してでも原発全機停止という挙に出たか、その本質をより多くの日本人が知っていたならば、現在の原発の事故もより被害のないものに終わっていたのではないかという空想にもついとらわれてしまう。まことに残念。