今回の震災の後、ネットででは、多くの人が、これまでの多消費型の経済からの脱却を訴えている。この夏の節電も別に15%程度、電気を使うのを控えても別に生活に困らなかったという向きもあるであろう。無駄な消費をしなければ、エネルギー消費も少なくて済む。ならば原発を止めてもいいだろうという論理が、反原発、スローライフ派の人たちの主張だ。しかし、江戸時代の「倹約令」のような節約を政府が政策として打ち出したりすることはない。これ以上景気が冷えると、ますます、失業者は増え、税収も落ち込むのを危惧するからである。震災の後、花見とかコンサートを自粛する動きが出た時も、景気の後退が復興を妨げるという意見が結構あった。確かに皆で節約するとGDPも減ってしまう。
このジレンマを解くカギは、これからの日本の行く末を考えるうえで重要である。経済は単純化したほうが分かりやすい。
ある南海の孤島の人口10人だけの経済を想像してほしい。そのうちの5人は農業で食料を生産している。もちろん食料は10人が食べてハッピーな量だけしか生産していないはずだ。なので需要と供給はぴたりと合っている。しかし、ある時この村の知恵者が島の経済を研究したところ、この島の人たちはメタボでそのために成人病が多く発生しているということが分かった。更には、生産した食べ物も管理が悪く、多くがネズミに食べられたり、腐ったりして生産物の4割が無駄になっていることが分かった。村議会ははカロリー消費20%低減のメタボ撲滅作戦、20%水準への無駄低減を政策として打ち出した。さて困ったのは農民である。この政策が実現すれば、生産はこれまので60%で足りることが明らかだ。一部の農民はこの新政策は経済を疲弊させるといって反対運動を計画し始めた。
ここまでは日本の原子力村と農民は同じ精神構造であることはお分かりであろう。自分の狭い利益に目がくらむとそういうことになる。ところがこの島の人たちはもう少し賢かった。農民の指導者が消費が減ることを歓迎しようと提案したのだ。彼はこういった。これまで人口の半分が食べ物を提供するのに早朝から日没まで働いていた。生産する必要量が減るのだから、まずは皆、働く時間を減らして日暮れ2時間前に仕事をやめることにしよう。これで先ずは2割の減少を雇用を減らさずして達成することができた。しかしながら、農民の所得は当然ながら2割減ることとなった。農民の反発はあったが、彼は農民たちにこれまで無駄な労働をしてきたこと、余った時間は本を読んだり、家族の世話をすればよいと説得したのだった。
早く帰宅して時間のできた農民の中にはその時間で知恵者のところへ行って、勉強する者もあらわれた。そこで一人の農民はメタボについて勉強をし、ダイエット教室を開くことにした。その結果は島人の健康は大幅に改善し、病気で仕事や勉強を休むものが激減した。平均寿命も延びて長期的には労働力も増える好結果となった。
次にはもう一人の農民が新しい蔵をたてて食物管理業に乗りだした。この蔵は厳重に分厚い壁で作られているので、ネズミの侵入を防ぎ、温度を一定に保つことができ、無駄の削減をほぼ0まで減らすことができることが分かった。この農民の倉庫業への転出で農民は3人となった。計算の得意な方は農民は昔通りに働いたら、2.5人しか必要がないことが終わりのはずである。さてどうするか、3人の所得を落として雇用を守るのかまた判断の分かれ目だ。単純な雇用確保は長い不況と新興国の追い上げで、実質賃金の切り下げで対応してきた日本と同じ道である。しかしここでも島民は違う道を歩むこととした。村の知恵者の助言で、一人は食料生産をやめて、薬草栽培に乗り出した。島の健康ブームもありこれは大きな所得を生み出すはずである。残った農民2人も知恵者のところに行き、水牛の導入による耕作効率の向上を目指すことを決めた。
これにより2人でも生産が達成できる。2人は将来を見越して、消費がさらに減っても所得が下がらないように、より収量の高い品種の導入を研究している。これが達成できれば、最後は農民一人で島全体の食料を賄うことができるはずである。
節約で島の経済は縮小したであろうか?もちろん答えはNOである。生産性の向上と新しいサービス業への転出で高い収入を得る職種ができたことにより所得は向上する。村人は以前にはなかった豊かなスローライフを満喫している。もちろん知恵者のところには助言のお礼にいつも贈り物が送られてきているはずだ。陳腐な経済用語でいえば、「生産性の向上」と「高付加価値産業の創出」が鍵ということになる。あともう一つ考えるべきことは雇用を守ることは重要であるが、個々の産業で守ることは全体の利益にならない、ましてや一企業の雇用を無理やり守ることは社会の生産性を停滞させることになりかねない。今の日本では製造業は厳しい状態におかれている。若者の失業率も高い。その一方で看護婦、介護士とかは不足している。児童の保育所も足らない。人手は一方で不足し、一方で余っている。
スローライフの普及と経済の成長は両立するか。上記の島の例を考えていただければYesといえるかもと思っていただければ幸いだ。だたし、それには労働市場の正しい意味での流動化が必要だ。多くの人が単純労働者ではなく、高付加価値を生むプロフェッショナルになる必要がある。新しい産業を興すための支援も必要である。新しい雇用を生むには規制緩和も大事だし、教育制度も変える必要があるであろう。ひいていえば、社会全体としての知恵を出す仕組みの構築が重要となる。まずはこの島の例のように遠い将来を見越した知恵者が必要なのかもしれない。この島のように皆が前を向くのは難しいですか?皆が後ろ向きで、今の仕事にしがみついていて経済が伸びないとこぼしていて経済が伸びるわけはない、とは思いませんか?
唐突ですが次回にはこの島の国債(島債?)問題について考えてみたい。
2011年9月20日火曜日
2011年9月17日土曜日
日本マスメディア向上計画
日本のマスメディアをどうしたらいいのか?先ごろの経産省大臣の舌禍事件でますます暗澹たる気持ちになってきた。昔、昔、私が就職したばっかりのころ、友人がとある大新聞に就職した。彼の話によると、まず新聞記者は夜討、朝駆が基本でともかく、担当の政治家について回るのだという。自分の書いた原稿は校了した後も印刷にかけられる深夜まで待機するというとのことであった。いつ寝るのと聞けば、車とかの移動中ということだった。という彼は、酒を飲みながら、寝込んでしまった。
現代のように変化の激しい世界では常に新しい知識を勉強しなければ時代から取り残される。寝る時間もない記者が本を読んだりして勉強する時間はあるのであろうか?おそらくないであろう。一方、記者クラブに出入りできるメディアは、官庁の大本営発表をそのまま流せば、とりあえずは紙面は埋まり、TVの時間は稼げる、何もしなくても日々の糧は稼げるわけである。となるとますます勉強することはなくなるのは人間の性である。しかしそんな報道ばかりでは読者も飽きてくるので、時たまスクープを打つ必要がある。その恰好の題材がスキャンダルであるが、昨今は愛人を囲うような度量のある政治家も少ない。となれば、金の問題か、失言ということがよいシノギになるということではないか。まして首相の首を取ればきっと報奨金くらい出るのであろう。日本の首相がころころ変わるのは彼らの力が弱くなったこともあるであろうが、メディアの読者、視聴者確保の営業材料に具されているだけである。漢字が読めないとか、英語を間違えたとか、低俗なアラさがしでまずは下地を作っておいて、より大きなミスでドカンと落とす。あとは仕上げを待つだけ。メディアはいつから首狩り族になったのであろうか?ただ、それを喜んでいる国民がまだいるとしたら、新聞紙にくるんで捨てるべきである。
もう一つの問題は、ウルフォンセン等の外人の政治学者がよく指摘している点であるが、日本の記者は政治の情報を国民に伝えることではなく、政治を動かすことを動機として仕事をしているいう点である。ナベツネとかはキングメーカーとして有名であるが、自分が祭り上げるのに関わった総理大臣のことについて客観的な報道ができるのか?答えは小学生でもわかるであろう。しかし、政治にかかわりたがっているのはナベツネだけではない。個人的な経験では、ある勉強会で、NHKの記者が、大臣をはめた話を披露しているのを聞いたことがある。自分の推し進めている福祉改革に対する質問に半分ひっかけで、大臣から言質を奪った経験を得意げに話していた。確かに多くの人が彼女の進める方向性は正しいように思ったのだが、そのために報道はゆがめていないのか?われわれは真実を知っていたのか?という疑問が残る。
今回の原子力村騒動で、自分自身の原発の知識の貧弱さに愕然とした。同時にマスメディアの歪みを多くの人が認識するようになったのはよいことだったと思う。われわれが愚民であるとしたら、その判断能力を問う前に、まずは正確な情報が得られているかどうかを問わねばならない。いっそのこと新聞、TVを見ないという運動もいいのではないかと思ったりするが、そうすると経済的に困窮して彼らはますますイエロージャーナリズムに走っていくであろう。
解決策はまずは記者クラブを廃止すること。次は新聞社等が証拠の整備をすすめるように多くの人が名誉棄損で訴えられるようにしたらどうであろう。なかなか妙案はない。有徳の金持ちが出資してスキャンダルは大きく取り扱わない、政策を取り上げるということを社是にするメディアでもつくってくだらないメディアを淘汰するしかであろう。
トマス・ジェファソンは出版の自由の必要性について、1787年に「新聞のない政府と、政府のない新聞のどちらをとるか、もしその判断を任されたなら、私は,瞬時のためらいもなく、後者を選ぶだろう」という有名な言葉を残した。そう思えるメディアが一つでいいからほしい。
現代のように変化の激しい世界では常に新しい知識を勉強しなければ時代から取り残される。寝る時間もない記者が本を読んだりして勉強する時間はあるのであろうか?おそらくないであろう。一方、記者クラブに出入りできるメディアは、官庁の大本営発表をそのまま流せば、とりあえずは紙面は埋まり、TVの時間は稼げる、何もしなくても日々の糧は稼げるわけである。となるとますます勉強することはなくなるのは人間の性である。しかしそんな報道ばかりでは読者も飽きてくるので、時たまスクープを打つ必要がある。その恰好の題材がスキャンダルであるが、昨今は愛人を囲うような度量のある政治家も少ない。となれば、金の問題か、失言ということがよいシノギになるということではないか。まして首相の首を取ればきっと報奨金くらい出るのであろう。日本の首相がころころ変わるのは彼らの力が弱くなったこともあるであろうが、メディアの読者、視聴者確保の営業材料に具されているだけである。漢字が読めないとか、英語を間違えたとか、低俗なアラさがしでまずは下地を作っておいて、より大きなミスでドカンと落とす。あとは仕上げを待つだけ。メディアはいつから首狩り族になったのであろうか?ただ、それを喜んでいる国民がまだいるとしたら、新聞紙にくるんで捨てるべきである。
もう一つの問題は、ウルフォンセン等の外人の政治学者がよく指摘している点であるが、日本の記者は政治の情報を国民に伝えることではなく、政治を動かすことを動機として仕事をしているいう点である。ナベツネとかはキングメーカーとして有名であるが、自分が祭り上げるのに関わった総理大臣のことについて客観的な報道ができるのか?答えは小学生でもわかるであろう。しかし、政治にかかわりたがっているのはナベツネだけではない。個人的な経験では、ある勉強会で、NHKの記者が、大臣をはめた話を披露しているのを聞いたことがある。自分の推し進めている福祉改革に対する質問に半分ひっかけで、大臣から言質を奪った経験を得意げに話していた。確かに多くの人が彼女の進める方向性は正しいように思ったのだが、そのために報道はゆがめていないのか?われわれは真実を知っていたのか?という疑問が残る。
今回の原子力村騒動で、自分自身の原発の知識の貧弱さに愕然とした。同時にマスメディアの歪みを多くの人が認識するようになったのはよいことだったと思う。われわれが愚民であるとしたら、その判断能力を問う前に、まずは正確な情報が得られているかどうかを問わねばならない。いっそのこと新聞、TVを見ないという運動もいいのではないかと思ったりするが、そうすると経済的に困窮して彼らはますますイエロージャーナリズムに走っていくであろう。
解決策はまずは記者クラブを廃止すること。次は新聞社等が証拠の整備をすすめるように多くの人が名誉棄損で訴えられるようにしたらどうであろう。なかなか妙案はない。有徳の金持ちが出資してスキャンダルは大きく取り扱わない、政策を取り上げるということを社是にするメディアでもつくってくだらないメディアを淘汰するしかであろう。
トマス・ジェファソンは出版の自由の必要性について、1787年に「新聞のない政府と、政府のない新聞のどちらをとるか、もしその判断を任されたなら、私は,瞬時のためらいもなく、後者を選ぶだろう」という有名な言葉を残した。そう思えるメディアが一つでいいからほしい。
2011年9月4日日曜日
「原発論争」と「夫婦ゲンカ」の相似性
とある中小企業経営者の一家の台所のシーン。
近年の不況で会社の経営は青息吐息である。疲れた表情で帰ってきた夫に奥さんが畳み掛ける。
妻:「ねえ、あんたまた飲んで来たの?」
夫:「仕方ないだろ。営業なんだから!」
妻:「お酒飲んで午前様ばかりじゃ、命を切り売りしているようなものじゃないの?あなたはいつもお金、お金と儲けの話ばかりだけど、健康あってのお金でしょう?子供の教育は全部私に押し付けて。子供のことは心配じゃないの?」
夫:「毎日営業で駆けずり回ってもなかなか契約も取れない。借金を返したら、今月の給料が払えるかどうかさえ危ういところなんだ。、今度の営業を逃すと大変なことになるんで必死なんだよ」
妻:「今のうちに商売替えでもしたらどうなの?たとえば介護とか、今後伸びるような分野に乗り出すとか?」
夫:「そんな、そんな不慣れなことに手を出しても、すぐつぶれちゃうよ。今はともかく生き残りで必死なんだ。」
妻:「会社なんてつぶれても家族さえしっかりしていれば何とかなるわ。いざとなったら私の実家にひきあげたっていいし。」
夫:「今まで贅沢ができたのは誰のおかげだと思ってんだ?生活レベルを落として家族が満足するとは思えないよ。」
いつまでたっても議論は平行線のまま、やがて家族内不信の渦はどんどん拡大していく。
中小企業を「日本」、接待営業は「原発」、夫は「経団連+経産省」、妻は「自然エネルギー推進市民団体、そして子供もつ全国のお母さんたち」に置き換えてみると、今の原発論争の構図ではないかと思う。
新興国の追い上げ、そこに加えての円高による日本企業の海外移転の加速、風評被害による輸出の落ち込みなどなど企業を取り巻く環境は大変に厳しいものがある。それに追い打ちをかけているのがこの夏の節電、そして電力料金の値上げ問題である。日本に競争力のある企業は残るのか?
企業は基本的に金の流れが止まるとあっという間に死に絶えてしまう。大口の契約をなくしてしまえば、企業の生命など数か月の運命である。収入なしに1年も持つような余裕のある企業などまず存在しない。日々の稼ぎが企業の生命線である。したがってともかく電気をくれ、何とか客先を日本においておいてくれということになる。一方、子供を育てる母親たちは、子供の将来という20年先、いや一生が視野に入っている。子供が何をやっていてもいい、金持ちでなくてもいい。健康でさえいてくれればと願うのが母親というものであろう。したがって原発何という危ないものは許容の外である。
目先の稼ぎ(しのぎ?)で頭がいっぱいの夫と何十年先のことを考えてる妻の間の議論はかみ合うことがない。以上はNHKの新生日本という番組のエネルギー討論を見ながら、これはいわゆる互いの立場を理解しない夫婦げんかに近いという感想を抱いて思いついたことである。
では解決策はあるのであろうか?喧嘩には仲裁が必要であろう。双方が相手の立場を尊重する態度しか
あゆみよりはない。原発再開も新しいもの、活断層から離れている安全性の高いものははとりあえず再開容認、その代り、今稼働する古い玄海一号などは停止と、合理的な判断をすべきである。さらに福島の事故調の結果をみて停止の是非を考えればよい。そうした道筋をちゃんと国民に確約すれば、反対派も説得できるはずである。
そして仲裁だけでなく、目先しか見ることができない夫=経済界には、手を差し伸べる必要がある。環境、医療、放射性廃棄物の除染、介護、再生可能エネルギーなど、あらたな糧を得る方法を支援できれば目からうろこで新しい商売にもチャレンジする意欲がわいてくるというものである。
そのために一番合理的なことが規制緩和と起業支援である。たとえば地熱、国立公園での開発は難しいが景観修復を条件に許可を積極的におろせば、国の予算は必要ない。たとえば、放射性物質の測定、アイソトープセンターの児玉先生の言われるように日本の画像技術と測定技術を用いれば世界に冠たる産業になるであろう。たとえば、ロボットの除染への応用などいくらでも新しい仕事は創出しうる。仕事を作るための規制緩和、安全な生活を確保するための規制を組み合わせることで雇用も創出できるはずである。
調停をし、めんどうみのいいおじさんに野田政権がなれるかどうかに脱原発の行方も日本の産業の行方もかかっている。
近年の不況で会社の経営は青息吐息である。疲れた表情で帰ってきた夫に奥さんが畳み掛ける。
妻:「ねえ、あんたまた飲んで来たの?」
夫:「仕方ないだろ。営業なんだから!」
妻:「お酒飲んで午前様ばかりじゃ、命を切り売りしているようなものじゃないの?あなたはいつもお金、お金と儲けの話ばかりだけど、健康あってのお金でしょう?子供の教育は全部私に押し付けて。子供のことは心配じゃないの?」
夫:「毎日営業で駆けずり回ってもなかなか契約も取れない。借金を返したら、今月の給料が払えるかどうかさえ危ういところなんだ。、今度の営業を逃すと大変なことになるんで必死なんだよ」
妻:「今のうちに商売替えでもしたらどうなの?たとえば介護とか、今後伸びるような分野に乗り出すとか?」
夫:「そんな、そんな不慣れなことに手を出しても、すぐつぶれちゃうよ。今はともかく生き残りで必死なんだ。」
妻:「会社なんてつぶれても家族さえしっかりしていれば何とかなるわ。いざとなったら私の実家にひきあげたっていいし。」
夫:「今まで贅沢ができたのは誰のおかげだと思ってんだ?生活レベルを落として家族が満足するとは思えないよ。」
いつまでたっても議論は平行線のまま、やがて家族内不信の渦はどんどん拡大していく。
中小企業を「日本」、接待営業は「原発」、夫は「経団連+経産省」、妻は「自然エネルギー推進市民団体、そして子供もつ全国のお母さんたち」に置き換えてみると、今の原発論争の構図ではないかと思う。
新興国の追い上げ、そこに加えての円高による日本企業の海外移転の加速、風評被害による輸出の落ち込みなどなど企業を取り巻く環境は大変に厳しいものがある。それに追い打ちをかけているのがこの夏の節電、そして電力料金の値上げ問題である。日本に競争力のある企業は残るのか?
企業は基本的に金の流れが止まるとあっという間に死に絶えてしまう。大口の契約をなくしてしまえば、企業の生命など数か月の運命である。収入なしに1年も持つような余裕のある企業などまず存在しない。日々の稼ぎが企業の生命線である。したがってともかく電気をくれ、何とか客先を日本においておいてくれということになる。一方、子供を育てる母親たちは、子供の将来という20年先、いや一生が視野に入っている。子供が何をやっていてもいい、金持ちでなくてもいい。健康でさえいてくれればと願うのが母親というものであろう。したがって原発何という危ないものは許容の外である。
目先の稼ぎ(しのぎ?)で頭がいっぱいの夫と何十年先のことを考えてる妻の間の議論はかみ合うことがない。以上はNHKの新生日本という番組のエネルギー討論を見ながら、これはいわゆる互いの立場を理解しない夫婦げんかに近いという感想を抱いて思いついたことである。
では解決策はあるのであろうか?喧嘩には仲裁が必要であろう。双方が相手の立場を尊重する態度しか
あゆみよりはない。原発再開も新しいもの、活断層から離れている安全性の高いものははとりあえず再開容認、その代り、今稼働する古い玄海一号などは停止と、合理的な判断をすべきである。さらに福島の事故調の結果をみて停止の是非を考えればよい。そうした道筋をちゃんと国民に確約すれば、反対派も説得できるはずである。
そして仲裁だけでなく、目先しか見ることができない夫=経済界には、手を差し伸べる必要がある。環境、医療、放射性廃棄物の除染、介護、再生可能エネルギーなど、あらたな糧を得る方法を支援できれば目からうろこで新しい商売にもチャレンジする意欲がわいてくるというものである。
そのために一番合理的なことが規制緩和と起業支援である。たとえば地熱、国立公園での開発は難しいが景観修復を条件に許可を積極的におろせば、国の予算は必要ない。たとえば、放射性物質の測定、アイソトープセンターの児玉先生の言われるように日本の画像技術と測定技術を用いれば世界に冠たる産業になるであろう。たとえば、ロボットの除染への応用などいくらでも新しい仕事は創出しうる。仕事を作るための規制緩和、安全な生活を確保するための規制を組み合わせることで雇用も創出できるはずである。
調停をし、めんどうみのいいおじさんに野田政権がなれるかどうかに脱原発の行方も日本の産業の行方もかかっている。
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