2014年10月14日火曜日

モラトリアムの国の終焉

人間というものは、とにかく、面倒なことは、後に回す、決断を先延ばし、先送りにするという悪弊をもっている。これは自分自身も含めての反省だが(ちなみに夏休みの宿題を最終日以前に終えた記憶が無い。)、この傾向は日本社会に特に強いのではないかと最近思う。

不確実性が高い状況においては、我慢して待つことにより状況が展開する場合もあり、合理な側面もある。しかし、悪意のあるものも多い。先延ばしにより、後任に責任を取らせる、とりあえず予算を確保するといった詐取性をもった先延ばしもある。

ちなみに国債の乱発と公共事業による景気浮揚策はその国家的発露かもしれない。原発の廃棄燃料処理、あるいは化石燃料大量消費も科学技術の発展という後世の努力への勝手な期待によって正当化されているともいえる。未来に視座を移すことに失敗すると、人類の滅亡もそう遠くない話になるやもしれない。


仕事をしていても、なかなか日本の上は決断をしたがらない。場合によっては情報を取ることさえ禁じる者さえいたりする。情報集は、不確実性を減らす、危ないものは早めにやめるのも、正しい判断だ。やめて次を狙えばよい。日本では、とかく最後まで諦めないことが美徳化されすぎている傾向がある。しかし、ずっと頑固に同じことにしがみついて、人生を棒に振った話は、ニュースにはならないのだ。

不確実性と戦う技術を早くからみにつける必要がこれからはあるだろう。終身雇用も、学歴社会も、福祉社会も終焉しつつある。あるのは激動の社会での生き残り術だ。


不安に目をつぶると、更に恐怖が増幅する。情報収集による早い決断は未来の不確実性を減らす唯一の方法だ。未来の困難に目を見開いて向かうとき人は恐怖から初めて開放される。